ウズベキスタン現地予備調査 サマルカンド1日目 レギスタン広場へ Uchun Registon maydoni 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月22日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 Copyright by T.Aoyama & K.Ikeda |
サマルカンド到着後、直ぐに歩いてレギスタン広場に行く途中、四人の12歳の男の子が近づいてきて、英語で日本人かと尋ねるので、「そうだ」と言うと広場まで案内すると一緒に歩いてくれましたた。 案内してくれた四人の生徒 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 案内してくれた四人の生徒 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 下の衛星写真はホテルからレギスタン広場までの経路を示しています。 一番上にある Hotel Asia Samarkand (アジア・サマルカンド)が宿泊したホテルです。写真の下にレギスタン広場(Registan Ensemble)があります。両者の距離は約500mです。 ホテルとレギスタン広場の位置関係 出典:グーグルマップ あるく道筋はレギスタン広場の裏側となります。 道沿いは下の写真にあるような3mほどの幾何学模様をもった高い壁で囲われています。 レギスタン広場には3つのメドレセが配置されていますが、いずれもその周囲、外壁は下の幾何学模様となっています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 この後、レギスタン広場に行く途中、レギスタン広場の一角で、下の地図の★印の位置にあるチョルスーに寄りました。 出典:グーグル衛星画像 このチョルスーは、以下の解説にあるように、もともとサマルカンドの中央市場でしたが、その後、国立文化歴史博物館となった模様です。そして現在はアートギャラリーとなっていました。正式名称はウズベキスタン美術アカデミーです。
下の2枚の写真はいずれも、サマルカンドのチョルスーです。 サマルカンドのチョルスー 出典:Wikipedia サマルカンドのチョルスー 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 チュルスーの横を通り、私達はレギスタン広場に向かいます。 サマルカンドの歴史地区は、ヒヴァ、ブハラなどと異なり旧市街地がある一定の範囲あるいは城壁の中にに集中しているのではなく、東京の上野公園のように広い公園のなかに、それぞれ大型のイスラム建築物が離れて存在しています。 先にブハラを視察して来た者にとっては、すこし拍子抜けします。 というのも、ヒヴァ、ブハラなどの古都では、旧市街に次々にモスク、マドレセ、ミナレット、廟などが所狭しと存在しており、まさに中世のまちに迷い込んだ感じとなります。 サマルカンドの場合、旧サマルカンドのころは3重、4重に城壁があり、同じような町だったのでしょうが、現在のサマルカンドのまちは、本当にひろい公園にポツン、ポツンと巨大施設があるのです。 四人の小学生はここまで案内してくれました。下はレギスタン広場の入り口近く撮影した写真です。 レギスタン広場にある3つのマドレセは、何んと言っても巨大であり、見学者をいやおうなく圧倒します。おそらくこれだけ巨大なイスラム建築物は、レギスタン広場以外なのではないかと思われます。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 下はレギスタン広場の一角にありますシェルドル・メドレセの側面を撮影する池田こみちです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ところで、中央アジア最古の都市 サマルカンド、文明の十字路は、人々が遭遇する町を意味します。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王が訪れ、その町の美しさに驚嘆したといわれています。 古くからシルクロードを代表するオアシス都市として「青の都」、「オリエントの真珠」、「光輝く土地」と賞賛され、トルコ石の青色は、サマルカンド・ブルーとしてサマルカンドを印象づける色とされています。 さて、「青の都」、サマルカンドで最も人々の目を釘付けにするのが、このレギスタン広場です! サマルカンドのレギスタン広場(Registan)は、ウズベキスタンの古都サマルカンドにある広場で、「砂の場所」という意味をもっています。メドレセ、ミナレット、青のドームの高さは35〜40メーターもあり、見る人を圧倒します。 サマルカンドと言えば「レギスタン広場」と言われるほどこのレギスタン広場は有名であり、チンギス・ハーンの来襲後、アフラジャブの丘から移ったサマルカンドの中心地を意味します。 この広場の建築物には、巨大なメドレセ(神学校)が3つ、それぞれミナレットが二つ、青いドーム、合計12の建造物がが有ります。それぞれについては、別途詳しく説明します。 レギスタン広場は、英語やフランス語で Registon ensemble レギスタン・アンサンブルと言いますが、この場合のアンサンブルは、複数の建築物による「複合体」を意味しています。 下がレギスタン広場の写真です。 なお、下のレギスタン広場の大判の写真はほぼ同じ角度から撮影したものですが、光の当たり具合が全く異なります。上の写真は、朝方、次の写真は夕方でほぼ太陽の位置は180度異なります。また三枚目の青山が写っている写真は昼前に撮影したものです。 |
レギスタン広場は、ウズベキスタンで典型的なイスラム建築物の複合施設です。そのレギスタン広場には、巨大なメドレセ(神学校)が三棟建っています。
レギスタン広場の正面から見た3つのメドレセの配置 出典:青山貞一、池田こみち 、正面には内部に金の装飾が施されているティラカリ・メドレセが、左側にはティムールの孫で学者でもあったウルグ・ベクが建てたメドレセが建っています。ウルグ・ベクについては、サマルカンド2日目のウルブベグ天文台跡でも詳述します。右手にあるシェル・ドル・メドレセは、偶像崇拝を厳禁するイスラム教で禁忌される動物と人間の顔が描かれています。 ちなみに正面から見て左側にあるウルグ・ベク・メドレセは1420年、右側にあるシェル・ドル・メドレセは1636年、中央にあるティラカリ・メドレセは3つのメドレセのなかで最も新しく1660年に建造されています。レギスタン広場にある3つメドレセは、いずれもティムールの死後に建てられたものです。 このティラカリ・メドレセの「青のドーム」にある礼拝室は金箔で覆われおり、精巧な幾何学紋様が色鮮やかです。これは<ティラカリ・メドレセ>の論考で、<ウルグ・ベク・メドレセ>や<シェル・ドル・メドレセ>についても同様に別途詳述します。 なお、ティムール及びティムール朝についての説明は、<グリ・アミール廟、アミール・ティモール廟>のところで詳述します。またサマルカンドのまちの歴史については、2日目の<アフラシャブ考古学博物館>のところで、詳述します。 下は航空写真で見たレギスタン広場です。周辺の住宅や公園も移っています。注目すべきはレギスタン広場の3つのメドレセだけでなく、周辺の住宅が航空写真で見ると、いずれも中庭つきの正方形に見えることです。私達のホテルは下の写真の上側を少し行ったところにあります。 出典:グーグルマップ 3つあるメドレセは、上空から見ると、いずれもほぼ正方形をしており、中庭があります。これはブハラで見たメドレセとほぼ同じ配置、構造です。メドレセの近くにはミナレットと青いドームがあります。まさにアンサンブルとなっています。 出典:グーグルマップ なお、下はグーグルアースの3次元立体表示で見たサマルカンドのレギスタン広場です。 出典:グーグルアースの3次元立体表示で見たサマルカンドのレギスタン広場 なお、下の3次元立体地図は、レギスタン広場から有名なタシケント通り(右上)を見たものです。タシケント通りのの端左側には、やはり世界遺産のビビ・ハニム・モスクなどがあります。 出典:グーグルアースの3次元立体表示で見たサマルカンドのレギスタン広場とタシケント通り ◆ウズベキスタンのイスラム建築物の入場料について ところで、ブハラ、サマルカンドでは30以上のイスラム文化に関連したモスク、メドレセ、ハナカ(修道院)などを視察しましたが、いずれも例外を除き入場料、写真撮料、ビデオ撮影料がかかりました。 よくみてると、全く払わすに入場している人も居ましたが、私たちはすべてを支払いました。中には、こんなものでよくお金を取れるなと思うものもありましたが、お賽銭、拝観料、寄付と思って支払いまくりました。 レギスタン広場への入場券 レギスタン広場の場合、入場料、撮影料(写真、ビデオ)の三点セットで一人7ドル(日本円で約820円)でした。おそらく今回の現地視察で一番高額のはずですが、欧米日本に比べれば相当リーズナブルと言えます。 レギスタン広場の場合は、一日中、出入り自由となっていました。因みに、ブハラのアルク城の場合は三日間出入り自由でした。 つづく |