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   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド1日目

メドレセ(神学校)とは
Madrasasi

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月22日  独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁  Copyright by T.Aoyama & K.Ikeda


 ここでは、レギスタン広場にある3つのメドレセについて共通する内容を紹介します。


正面から撮影したレギスタン広場  出典:池田こみち Nikon Cool;ix S6400


サマルカンドで一番の著名な場所となっているレギスタン広場です
出典:池田こみち Nikon Cool;ix S6400

 まず、以下にメドレセあるいはマドラサとよばれる神学校の概要と歴史について紹介します。

◆メドレセ(あるいはマドラサ)(madrasa)

 メドレセは、スラーム世界における学院を意味します。元々は単純にアラビア語で「学ぶ場所、学校」を意味するだけでしたが、11世紀に制度的に確立し、イスラーム世界の高等教育機関として広く普及します。

 モスクと併設される場合も多く、一般に寄進財産で運営されます。近代の世俗教育の普及によって、宗教教育の専門機関となりました。

 「メドレセあるいはマドラサ」という語は、もともと「学校」「学ぶ場」という意味で、アラビア語以外にも、ウルドゥー語・ペルシア語・トルコ語・クルド語・インドネシア語・マレー語・ボスニア語などアラビア語の影響を受けた諸言語にも語彙として存在しています。

歴史
 メドレセは、イスラーム世界の創成期からあった機関ではなく、その起源は、ムスリムがモスクでイスラームの教義などを話し合ったことに由来するとされいます。ムスリムたちは、このモスクでの対話を通じて、コーランやその教義について理解を深めてゆきました。その際に、講師役を務めて会合をまとめた人物が「シャイフ」(長老、老人を指すアラビア語、それが転じて集団の長を意味し、ウラマーやスーフィーを指すこともある)とみなされました。

 彼らは定期的に「マジュリス」(集会所、サロン、議会を指すアラビア語)と称される会合を開き、イスラーム諸学についての研鑽を積んでいました。イスラーム世界では、859年に設立されたモロッコ、フェズのアル・カラウィーン大学が、世界最古のマドラサと考えられています。

 10世紀より、ホラーサーン地方で各地の実力者によってマドラサが建設され、11世紀後半、セルジューク朝のワズィール(宰相)ニザームルムルクが、国家主導の公的な学術・教育機関としてマドラサを各都市に配置しています。これらは、彼の名をとってニザーミーヤ学院と称され、スンナ派法学を中心として諸学の振興が図られました。(当時有力であったイスマーイール派(ニザール派)による活発な布教活動への対抗があったとも指摘されています。

出典:Wikipedia

◆実際のメドレセの詳細

  以下は、現地で聞いたメドレセの概要です。

 ティムール朝の往時には、3つあるメドレセ(神学校)に、各約百人の神学生がおり、完全な寄宿舎生活の下、13歳から33歳までの20年間学んでいました。メドレセに入学できる神学生は各地の知識、見識、倫理などのエリート、選りすぐりであったようです。

 彼らは、メドレセの二階に設けられた蟻の巣のような個室で自炊をし自学自習します。メドレセの角角には講義室があり、床にカーペットを敷いて講義を聞きます。そこでは、神学はもとより、法学、哲学、数学などを学び、瞑想とコーランの祈りとともに布教、地域の教育活動を行っていました。

 ティムール王朝時には、キャラバンサライを併設し、シルクロードを行く隊商から負荷金を徴収し、メドレセの維持管理と運営に当てていました。現在、神学生は国費によって教育を受けています。

 下は、レギスタン広場にある3つのメドレセの平面図です。

 メドレセはその規模の大小を問わず、通常、中庭がある正方形のイスラム建築物であり、1,2階とも小さな個室となっています。レギスタン広場のメドレセでは、部屋に入ることはできませんでしたが、ブハラの二日目、「私立学芸員」の案内で、ブハラ郊外の古いメドレセに行き、二階の神学生の寄宿舎、講義室、集会室などをそのモデルとして詳細を視察することができました。

 メドレセの部屋には、昔も現在も男性しか入れないそうです。女性で入ったのは恐らく今回の池田こちみがはじめてだと思います。但し、ブハラで二階に上がって詳細を視察したメドレセはほとんど廃墟化しており、登り降りも危険なほどでしたが、非常に貴重な経験ができました。

 各個室では神学生は自習、学習、自炊、就寝などを行います。建築物の角角に教師(指導者)と対話したり、質疑を行う場所{コーナー)があり、神学生はカーペットなどが敷かれた床に座ってそれらを行っていたそうです。

 以下はブハラ郊外にあった古いメドレセの外観です。外観は基本的にレギスタン広場のメドレセでも同じです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下の写真は、ブハラで見たメドレセの自学、自習、炊飯、就寝する神学生の小部屋です。まるで「独房」のように見えますが、炊事の煙を抜く通気口などもありました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下の写真も、神学生の小部屋です。廃墟化しており、表面のシックイか土が落ちて煉瓦がむき出しになっていました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下は教師(指導者)と対話したり、質疑を行う場所{コーナー)です。ただし、これはブハラの校外にあった非常に古いメドレセで、見て分かるように建築物の一部は廃墟化していました。


教師(指導者)と対話したり、質疑を行う場所{コーナー)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下はブハラの古いメドレセのドームの天井です。廃墟化していますが、すばらしいイスラム建築や幾何学模様をみることができました。


ブハラの古いメドレセのドームの天井
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下はレギスタン広場にある3つのメドレセの平面図です。

 3つのメドレセともに、広場に向いているのがメドレセの正面です。形状はいずれも正方形であり、神学生のための自学、自習、寄宿生活用の小部屋が沢山並んでいます。また上述したように、各メドレセ建築部の角には、円形あるいは正方形の講義室、集会室が配置されています。

 レギスタン広場にあるウルグ・ベグ・メドレセでは、ティムール朝の為政者であり、同時に学者、文化人だったウルグ・ベク(アムール・ティモールの孫に相当)自身も、神学生に哲学、数学、天文学などの学問を教えていました。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


 下の写真は、レギスタン広場にある3つのメドレセのひとつティラカリ・メドレセの一階の展示場にあった写真の数々です。いずれも、修復以前のメドレセの写真です。

 レギスタン広場にある3つのメドレセは、大修復により往事の美しさがよみがえっていますが、ブハラなど他地域のメドレサには古いものが多く、放置しておくと、ますます廃墟化して行くものと思われました。それらの古いメドレセは原則として関係者以外入場規制をしているようです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


出典:池田こみち Nikon Cool;ix S6400


出典:池田こみち Nikon Cool;ix S6400


出典:池田こみち Nikon Cool;ix S6400


つづく