エントランスへはここをクリック      <全体メニュー・中央アジア>

   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド1日目

ウルグ・ベグ・メドレセ
Ulug'bek madrasasi

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月22日  独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁  Copyright by T.Aoyama & K.Ikeda


 ここで、レギスタン広場に3つあるメドレセをひとつひとつ紹介します。

 最初は下の写真の左側にあるウルグ・ベグ・メドレセです。


正面から撮影したレギスタン広場  出典:池田こみち Nikon Cool;ix S6400

 下の写真は逆光となっていますが、<ウルグ・ベグ・メドレセ>です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下の写真もウルグベグ・マドレセです。


中央アジアにおいて天文学研究の中心地であったウルグ・ベク・メドレセ
このメドレセは、サマルカンドのリンギスタン広場にあります!
出典:Wikipedia


 サマルカンドに巨大なメドレサを造営したウルグ・ベグ(1394年 - 1449年)は、ティムールの孫であり、ティムール朝の第4代君主でもありました。

 ウルグ・ベグは、第四代のティムール朝の為政者であるとともに、世界でも希有で秀逸な文化人、学者でもありました。下はソビエト連邦時代に発行されたウルグ・ベクが描かれた切手です。
  

ソビエト連邦時代に発行されたウルグ・ベクが描かれた切手


 下は正面から撮影したウルグ・ベク・マドラサです。


サマルカンドにあるウルグ・ベク・マドラサ(イスラム学院)   出典:Wikipedia

 以下は、ウルグ・ベク・マドラサの外部から内部に入る途中の階段です。


ウルグ・ベク・マドラサの外部から内部に入る途中の階段
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 なお、以下はグ-グルアースの3次元立体CGで見たウルグ・ベク・メドレサです。



 また下の写真はウルグ・ベク・メドレセの中庭で撮影したものです。


ウルグ・ベク・メドレセの中庭
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 ウルグ・ベクの建造物の中には、後世に崩壊したものもありますが、サマルカンド、ブハラには彼の建てたメドレセが残っています。たとえば、ウルグ・ベク・メドレセ(サマルカンド)、ウルグ・ベク・メドレセ (ブハラ)です。そのうちもっとも有名なメドレセは、リンギスタン広場にあるウルグ・ベグ・メドレセであることは言うまでもありません。

 下はウルグ・ベグ天文台跡にあります博物館にあるウルグ・ベグの肖像画です。ウルグベグ天文台については、サマルカンド2日目の後半で詳述しています。

 ウルグ・ベク統治下ではマドラサ(神学校)などの教育、公共施設が数多く造築されました。メドレセなどの公共教育施設には土地がワクフ(寄進財産)として寄進され、ワクフからあがる収益によってメドレセの施設の維持と管理が行われていたそうです。

 またサマルカンドがシルクロードの中心、中核としであることから、数多くのキャラバンサライがつくられましたが、そこからもメドレセの運営資金の一部を徴収していたようです。


ウルグ・ベグの肖像画   撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 そのウルグ・ベクはサマルカンド総督時代から中国の明に対してたびたび使節を派遣しています。1439年にウルグ・ベクが贈った良馬は明の英宗に気に入られ、英宗は馬の姿を描かせて縁起のいい名前を付けています。

 1449年にウルグ・ベクの派遣した使節が明の宮廷を訪れたが、この年にウルグ・ベクは殺害されたために彼が派遣した最後の使者となり、英宗は土木の変でオイラトの捕虜とされました。ウルグ・ベクがサマルカンドに建てた絵画館は、中国の影響を色濃く受けた壁画で装飾されていたといわれています。

 
つづく