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   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド1日目

アミール・ティムール廟
(グーリ・アミール廟)その3
Amir Temur maqbarasi (Go'ri Amir)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月22日  独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁  Copyright by T.Aoyama & K.Ikeda


◆盗掘

 1740年、ナーディル・シャーは自身が中央アジアの支配者として心酔していたティムールの石棺を持ちだそうとしました。彼はティムールの武勇伝を模倣しようとし、それは特に治世の残酷さとなって現れ、結果として彼は暗殺され帝国は分裂しました。

 石棺の持ち出しを悪い兆しであると考えた彼の補佐官は石棺を正しい場所に置いたままにしておくよう忠告しました。

 1941年6月19日、ティムールの石棺は2回目の盗掘の被害にあうこととなりました。

 ソビエト連邦の考古学者が地下室を発見、ミハイル・ゲラシモフはティムールの頭蓋骨からティムールの顔の特徴を再現することができました。これにより、ティムールの身長は当時としては長身の部類に入る約172cmであり、はっきりと足を引き摺って歩いていたことが確認されました。

 さらに、ウルグ・ベクの暗殺に関する歴史情報や、他の墓の真偽も確認されました。ティムールとウルグ・ベクの頭蓋骨はスターリングラードの戦いが始まった1942年11月に完全なイスラム教の形式に則って再埋葬されました。


 この後、アミール・ティムール廟内でお祈りがありました。下はそのとき撮影した動画です。照明が一切無く、また僧侶から遠く離れていましたので音声も良くありませんが、貴重な動画ですのでご覧ください。


撮影:青山貞一 ビクターGZE256B

 以下は、廟内でお祈りをされていたイスラム信者の方とツーショットです。気楽に応じて頂けました。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 ここでティムールとサマルカンドの都市整備について一言。

◆ティムールとサマルカンドの都市整備

 ティムールは都に定めたサマルカンドに強い愛着を抱いており、多くの施設を建設しました。

 サマルカンドには多数のモスク(霊廟)、メドレセ(学院)、武器工房が建設され、灌漑水路も整備されました。大規模な工事現場にはティムール自身も視察に現れ、建築家や商人を叱咤激励しています。

 ティムール統治中のサマルカンドにおける代表的な建築物がこのアミール・ティムール廟と先に紹介しました翌日最初に訪問したビビ・ハニム・モスクです。

 また、サマルカンド近郊にはソルターニーイェ、シーラーズ、バグダードなどの西方の都市の名前を冠した村が建設されました。

 村の中にはミスル(カイロ)、ダマスカス、バグダードといったかつて存在したイスラム国家の首都の名前を持つものもあり、命名の裏にはそれらの古都でさえもサマルカンドの威光には及ばないことを示す意図があったと思われます。

 都市文化に親しみ都市の建築に力を注いだティムール朝の君主たちも、一方では遊牧民の末裔であって、都市の中の窮屈な宮殿よりも都市の周辺に設けた広大な庭園の中でくつろぐことを好んでいたようです。

 こうしてサマルカンドには大小さまざまな庭園が建設されたが、サマルカンドのそれは、サマルカンドで生まれ育ったバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』において詳細に描かれ、その見事なさまが今日に伝えられています。


出典:Wikipedia

 この後、アミール・ティムール廟の外に出ました。

 下の写真は廟内で一緒だった僧侶とウズベキスタンの市民です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
 

 私達はアミール・ティムール廟を後にすぐ隣にありますアクサライ廟を訪問します。
 
 下の写真にありますドームは、そのアクサライ廟です。


アクラサイ廟のドーム
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
 

つづく