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ミュンヘン・オーストリア短訪

歴史的背景

鷹取敦

掲載月日:2016年10月5日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


内容目次
  1 歴史的背景
ミュンヘン 8/12 2 ミュンヘン(1) | 3 ミュンヘン(2)
8/13 4 ノイシュヴァンシュタイン城 | 5 フュッセン| 6 ヴィース教会
ザルツブルク 8/14 7 歴史・ミラベル宮殿 | 8 教会・モーツァルト | 9 レジデンツ・大聖堂
10 ホーエンザルツブルク城 | 11 サウンド・オブ・ミュージック
ザルツカンマーグート 8/15, 16 12 ザルツカンマーグート | 13 ハルシュタット(1) | 14 ハルシュタット(2)
ウィーン  8/16 15 リングシュトラーセ
8/17 16 旧市街・シュテファン大聖堂 | 17 ホーフブルク王宮・美術史博物館
18 シェーンブルン宮殿

 一昨年(2015年)8月、スペイン北部のカタルーニャ地方と中部のカスティーリャ地方を、昨年(2016年)8月には、南部のアンダルシア地方を訪れましたが、今年(2017年8月)は、ドイツ・ミュンヘンとオーストリアを訪れました。

◆鷹取敦:スペイン旅行記・バルセロナ(2015年8月)
http://eritokyo.jp/independent/takatori-spain2015-01.htm

◆鷹取敦:スペイン・アンダルシア短訪(2016年9月)
http://eritokyo.jp/independent/takatori-spain2016/01.htm

 スペインとオーストリアはその歴史の一部にハプスブルク家という大きな存在を共有しています。

■スペインのハプスブルク家

 スペインが「太陽の沈まない国」と称されたのは、スペイン・ハプスブルク家の時代でした。下の地図のように黄金期には世界中にその領土、植民地等がありました。「太陽の沈まない国」とは、そのどこかでは必ず太陽が出ていること、そしてその繁栄を意味します。最盛期の大英帝国も同様に呼ばれていました。


スペイン・ザルツブルク朝の領土、植民地、属領(1580〜1640年)
(Wikipedia Commons)


 スペインのハプスブルク家が成立したのは神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)がスペインの王位に就いた時です(スペイン王在位1516〜1556年)。皇帝カール5世の父であるフィリップ美公は、(ハプスブルグ家の)神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長子でした。

 フィリップ美公は、カトリック両王と呼ばれたカスティーリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(ふたりの結婚によるカスティーリャ・アラゴン連合王国が実質的なスペイン王国)の娘フアナと結婚し、イザベル1世死去後にフアナがカスティーリャの王位に就いた際、妻との共同統治を主張して「カスティーリャ王フェリペ1世」を僭称しました。その子カルロスが王位に就いたことによりスペインのハプスブルク家が成立しました。

 下の家系図の太字がハプスブルク家の血筋です。

カスティーリャ女王
イザベル1世

 
アラゴン王
フェルナンド2世 
  ハプスブルク家(オーストリア)
神聖ローマ皇帝

マクシミリアン1世
       |             
カスティーリャ女王・アラゴン女王 フアナ
カスティーリャ王(僭称)
フィリップ美公(フェリペ1世)
   
    
 
         |  
神聖ローマ皇帝 カール5世
スペイン王 カルロス1世) 
神聖ローマ皇帝 フェルディナント1世
(カール5世の弟)
   
 スペイン王 フェリペ2世
スペイン・ハプスブルク家 オーストリア・ハプスブルク家

 現在のスペイン王室は、スペイン継承戦争によって1700年に王位についたフェリペ5世(フランスのブルボン朝ルイ14世の孫)以来、スペイン・ブルボン朝です。フェリペ5世の祖母はスペイン・ハプスブルク家出身ですから、現在の王室はハプスブルク家の末裔でもあり、それがスペイン継承戦争において継承権を主張した理由でした。

 そこで、今年(2017年8月)は、ハプスブルグ家が神聖ローマ帝国の皇帝だった時代、オーストリア皇帝、オーストリア=ハンガリー皇帝だった時代に渡り「本家」ハプスブルク家の領地であったオーストリアを中心に訪れることにしました。

■オーストリアのハプスブルク家

・神聖ローマ皇帝家としてのハプスブルク家のはじまり

 ハプスブルク家の領地として知られるオーストリアですが、元々、ハプスブルク家の所領はオーストリアではなく、ライン川上流、スイス北東部から西南ドイツにかけた弱小貴族でした。

 オーストリアのハプスブルク家は、神聖ローマ帝国の混乱期である大空位時代(1256〜1273年)、1273年にハプスブルグ家の当主ルドルフがにローマ王(ドイツ王)に選出されアーヘンで戴冠を受けて神聖ローマ皇帝となった後にはじまります。当時、ハプスブルク家は小さな所領しかもたない小貴族でした。当時、本命とされていたのはボヘミア王オットカル2世でしたが、それ故に他の選帝侯から忌避されました。そして、御しやすいと思われた小貴族にすぎないルドルフが神聖ローマ皇帝に選ばれたのです。

 同じようなことは歴史的に他にも起きています。たとえばロシア・ロマノフ朝の創始者であるミハイル・ロマノフは、当時空位となっていたツァーリ選出の際、やはり御しやすいことを理由のひとつとして少年ミハイルが新しいツァーリとして選ばれました*2。ハプスブルク朝は(断続はあるものの神聖ローマ帝国時代、オーストリア=ハンガリー帝国を通じて)1273年〜1918年、ロマノフ朝は1613年〜1917年と、いずれも長期にわたる王朝の礎を築きました。

・オーストリア領の獲得

 当時、オーストリア地域はボヘミア王オットカル2世が支配していましたが、ハプスブルク家のルドルフはバイエルン軍とともにウィーンに進軍してオットカルを破ります。その後、ルドルフに再度挑んだオットカルが戦死し、オーストリアなどの地域はハプスブルク家に与えられました。しかし当初はウィーン市民はよそ者ハプスブルク家に対する反発と対立がありました。ハプスブルク家がウィーンと深く結びついたのは17世紀に入ってからでした。

 その後、1529年、1683年の2度にわたりオスマン帝国軍にウィーンが包囲されたことからも分かるように、当時のオーストリアは異民族が帝国への侵略を防ぐための砦の役割を果たす辺境の地でした。

・皇帝位の「世襲」のはじまり

 1273年に皇帝位についたルドルフ1世の後、皇帝位はハプスブルク家により世襲されませんでした。1438年にアルブレヒト2世がローマ王に選出され、次いで、その又従兄弟のフリードリヒ3世がローマ王・そして皇帝に選出されて、ハプスブルク朝がはじまります。

 フリードリヒ3世もルドルフと同様、貧しい領主で凡庸であることを理由にローマ王に選出されましたが、フリードリヒ3世とその子マクシミリアン1世の時代に外交戦略、婚姻戦略によりハプスブルク家は支配権を広げていきました。スペインのハプスブルク家がはじまったものマクシミリアン1世の婚姻政策によるものでした。

■神聖ローマ帝国

・フランク王国の分裂と神聖ローマ帝国のはじまり

 アルブレヒト2世がローマ王(ドイツ王)、フリードリヒ3世が皇帝の座について以降、ハプスブルグ家は、神聖ローマ帝国崩壊まで皇帝の座をほぼ独占しました。この神聖ローマ帝国のルーツは、西ローマ帝国滅亡(476年)の後に成立したフランク王国(481年メロヴィング朝成立、800年カロリング朝 フランク王カール1世が戴冠)にあります。西(フランス)と東に分裂したフランク王国のうち東側(現在のドイツとイタリアの北部)が神聖ローマ帝国の始まりです。


フランク王国の時代別領土(Wikipedia Commons)


フランク王国の領土(870年)(Wikipedia Commons)

 上の地図のように3つに分裂したフランク王国のドイツ、イタリアに相当する部分が神聖ローマ帝国となり、西側がフランス王国となりました。下の地図が962年の神聖ローマ帝国の領土です。


神聖ローマ帝国の領土(962年)(Wikipedia Commons)


 神聖ローマ帝国では、有力諸侯(選帝侯)によって「ローマ王」(ドイツ王)が選出され、ローマ教皇によって戴冠を受け皇帝となります。(1508年にはハプスブルク家のマクシミリアンが戴冠を受けずに皇帝を名乗り始めています。)


神聖ローマ帝国の時代別領土(Wikipedia Commons)

 帝国の名称は時代により変遷しています。初期は「西方帝国」(西ローマ帝国の復興)、11世紀までは「帝国」(ローマ帝国)、12世紀は「神聖帝国」、13世紀は「神聖ローマ帝国」、1512年に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」、1804年に「ローマ=ドイツ帝国」、1806年8月6日の解散詔勅では「ドイツ帝国」と呼ばれてきました。ただし、一般には解散時まで「神聖ローマ帝国」と呼ぶことが多いようです。

・神聖ローマ帝国の実態

 後にフランス王家の直轄領地を拡大し中央集権を確立したフランスと異なり、神聖ローマ帝国では特に大空位時代以降は諸侯の力が増し、皇帝とは名ばかりで中央集権的な統治は行われていませんでした。また神聖ローマ皇帝はローマ教皇と頻繁に対立していました。神聖ローマ帝国は、18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールに「神聖でもなく、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と揶揄されています。*3

・神聖ローマ帝国の衰退のはじまり

 カトリックとプロテスタントによる宗教戦争(三十年戦争)に終止符を打った1648年に締結されたウェストファリア条約により、300以上の帝国諸侯の主権が認められ、神聖ローマ帝国は領邦国家と自由都市の集合体となりました。ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」といわれます。*3 死に体となった神聖ローマ帝国は正式には約150年後に解散されることになります。

・マリア・テレジアの時代

 1711年に即位したカール6世は対外戦争によりハプスブルク家の領地を拡大しましたが、唯一の男子が夭逝したため、皇女マリア・テレジアを後継者とする国事詔書を出し諸国と交渉し承認させました。ちなみに、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の領域外にも領土を持っています。諸侯の力が強く名ばかりである神聖ローマ帝国の領土と、皇帝位を世襲してきたハプスブルク家自身の領地は別なのです。このハプスブルク家自身の領地の相続を諸外国に認めさせる必要がありました。

 ところが1740年のカール6世死去後、約束は反故にされ、オーストリア継承戦争が勃発しました。プロイセン、バイエルン、フランス等との戦いです。マリア・テレジアはハンガリー議会に助けを求め、ハンガリー軍の応援を得てフランス軍を排除し、ハプスブルク家の世襲と神聖ローマ皇帝位を承認させることに成功しました。ちなみにハンガリーは神聖ローマ帝国の外にあり、帝国の一部ではありません。

 その後、ハプスブルク家はプロイセンに復讐するため、敵対関係にあったフランスと同盟関係を結び、1770年にはマリア・テレジアの娘マリー・アントワネットがフランスの王太子(のちルイ16世)と結婚しました。マリー・アントワネットとルイ16世はその後のフランス革命で処刑されています。

 マリア・テレジアの後を継いで1765年に皇帝に即位した嫡男ヨーゼフ2世はマリア・テレジアとの共同統治をはじめ、啓蒙専制主義を確立しました。

・神聖ローマ帝国の終焉

 王政を廃したフランス革命をヨーロッパ諸国はつぶそうとしました。これに対してフランスは、1792年、神聖ローマ帝国に対して宣戦布告し、その後ほぼ全ヨーロッパを相手に戦争しました。3次にわたりフランスに敗れた神聖ローマ帝国は、ヴェネチア、チロルの割譲、バイエルン等の王国への昇格を認めさせられ、中小の帝国内の領邦が帝国を脱退し1806年フランツ2世は神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)退位と帝国の解散を宣言しました。

■オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリー帝国二重帝国)

・自ら戴冠した皇帝

 1804年5月、ナポレオン・ボナパルトは自ら戴冠しフランス皇帝を名乗りました。(神聖ローマ帝国消滅に先立つ)同8月、神聖ローマ皇帝フランツ2世は自らオーストリア皇帝フランツ1世を名乗り、ハプスブルク家の領地をオーストリア帝国とします。


オーストリア帝国の領土(Wikipedia Commons)


 皇帝とは、西ローマ帝国の帝位を「継承する」神聖ローマ皇帝以外になかったことから、ナポレオンが自ら皇帝を名乗ったのは文字通り「革命」的なことでした。既に実質を失ったとはいえ神聖ローマ帝国の皇帝であったフランツ2世が、自らオーストリア皇帝フランツ1世を名乗ったのは、ナポレオンに対応するものと言われています。当時、神聖ローマ帝国の構成が大きく変わり、「ドイツ王」選挙によって皇帝位を獲得することが不可能と判断される状況でした。

 ちなみにロシアにも皇帝(ツァーリ)がいましたが「ツァーリ」(ラテン語の「カエサル」から)は日本語では同じ「皇帝」と訳されますが皇帝(エンペラー)とは別の意味です。ピョートル1世は元老院に「インペラートル」(皇帝)の称号を授けられ、1721年より帝政ロシアの時代がはじまりました。*2

 オーストリア帝国には、神聖ローマ帝国の一部とされているボヘミア(チェコ)、ザルツブルク、ケルンテン、チロル地方など、神聖ローマ帝国の外の領域としてはオスマン帝国からの征服地であるハンガリー、トランシルヴァニア、クロアチア、イストリア、ダルマチア、ポーランド分割によって獲得したガリツィア、ブコヴィナ、その他の地域が含まれます。

 フランス革命により国民国家の形成が進み、ドイツとロシアの帝国主義のあおりを受けて、多民族国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内では、汎ゲルマン主義と汎スラブ主義という2つの民族主義が同時に発展し、多くのユダヤ人を抱える中、ますます困難な時代に入ります。

・オーストリア帝国の衰退

 フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝位(3代目)を嗣いだ1848年には、オーストリア帝国は既に衰退の傾向にありました。フランス革命の2月革命から始まった革命運動はヨーロッパ中に広がり、ウィーンでも1848年3月13日のウィーン大学の学生デモから革命が始まりました。当時の皇帝フェルディナント1世は11月21日に新たな議会を招集し、12月には皇帝の地位を甥のフランツ・ヨーゼフに譲ったのです。革命は鎮圧されましたがハンガリーでは続行されていました。オーストリア皇帝はロシアの援助を得て、ハンガリーの独立を鎮圧しました。

 1853年、不凍港を目指すロシア帝国とオスマン帝国の間でクリミア戦争が勃発し、オーストリア帝国はオスマン帝国を支持し、ロシアとの関係が悪化しました。ロシアの後ろ盾を失ったオーストリア帝国はドイツ連邦内における地位を失います。1866年にはプロイセンとの間での普墺戦争を起こして大敗しました。

・二重帝国

 多民族国家であるオーストリア帝国は人口24%に過ぎないドイツ人(ドイツ系国民=ドイツ語話者)によって支配されていましたが、帝国の衰退に伴い諸民族が動き出しました。特にマジャル人(ハンガリー人)を押さえるのは難しく、1867年に帝国を2つに分割し、オーストリア皇帝兼ハンガリー国王を共通の君主としていただくオーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)となりました。


オーストリア=ハンガリー帝国の民族分布(Wikipedia Commons)


 当時のヨーロッパの地図をみると、オーストリア=ハンガリー帝国が大国であったことがわかります。


1914年のヨーロッパ(Wikipedia Commons)

・帝国から共和国へ

 1914年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が、閲兵のためにサラエヴォを訪れ、パレードをしていたところを暗殺されたサラエヴォ事件が第一次世界大戦の引き金となったのはよく知られています。

 第一次世界大戦を契機として帝国内の諸民族が独立し、1918年、皇帝カール1世が退位し、オーストリア=ハンガリー帝国は終焉を迎え、共和制に移行し「ドイツ=オーストリア共和国」となりました。2つ上の民族分布図のうちドイツ語系の民族の地域の主要部分がその領土で、ほぼ現在のオーストリアに相当します。

 カール1世の統治期間が2年に満たなかったこと、フランツ・ヨーゼフ1世の在位期間が68年(1848〜1916年)と長いことから、フランツ・ヨーゼフ1世が実質的な「最後の皇帝」と呼ばれています。

■オーストリア共和国

・もう1つの「ドイツ」

 残された領土に住むドイツ系住民は、ドイツとの合邦(ドイツ系の他の地域とともに1つの国となること)を望みましたが、これは禁じられ、名称は「オーストリア共和国」へ改めさせられました。この段階では、オーストリア共和国のドイツ系住民のアイデンティティは「ドイツ人」であり、国内の左右いずれの陣営もドイツとの合邦を望んでいたため、オーストリア共和国としての独立は、「誰も望まなかった国」とオーストリアの作家アンディクスに揶揄されています。

・ヒトラーによる「合邦」

 ドイツとの合邦を禁じられたオーストリア共和国は、その後、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラー率いるナチ党による第三帝国(ドイツ)に編入されます。なお、ヒトラーは最も知られたオーストリア人の一人と言われています。

 キリスト教的なそして社会的経済的な性格をもった反ユダヤ主義に加え、世紀末のウィーンでは帝国内の諸民族の対立のスケープゴート的な役割としてユダヤに対する攻撃の強い都市として若きヒトラーを迎えたのです。オーストリアで生まれたヒトラーは1907〜1913年をウィーンで過ごしました。ヒトラーによるドイツとオーストリアの「合邦」により最も大きな被害を受けたのはオーストリアのユダヤ人でした。

 オーストリア人(その多くはドイツ語系の民族という意味でドイツ人で、元々ドイツとの合邦を望んでいた)はヒトラーによる合邦を歓迎し、多くの人々はナチの政策を積極的に受け入れてしまいました。

 第二次世界大戦において、1942年の英・米・ソによる「モスクワ宣言」で「ヒトラーの野蛮な侵略により犠牲となった最初の自由国家であり、ドイツの支配から解放されなければならない」「ヒトラー・ドイツの側に立って戦争に参加した責任を負っていることは逃れえない」「自らの解放にどれだけ貢献があったかが考慮されるであろう」とすることで、連合国はオーストリアの抵抗の活性化を促しました。

 反ユダヤ主義や、全体主義の台頭については、ドイツ出身のユダヤ人である哲学者ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」や「イエルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」に私達の生きる現代社会にも通じるその本質が示されています。

・永世中立国オーストリア

 第二次世界大戦におけるドイツの敗戦によりオーストリアは独立を取り戻しました。図らずも望んでいたはずの「合邦」がナチ党による編入という形で行われ、当初は歓迎したものの、その後のナチ党による統治、そして再度の独立の過程においてナチ党の最初の犠牲者とされた経緯を経て、ドイツ人ではなく、オーストリア人としての新しいアイデンティティを確立していったと言われています。

 第二次世界大戦後、東西対立の中、地理的にも東西の中間的位置にあったオーストリアはどちらにも属さない中立的な立場をとることで独立国家の地位を得ました。永世中立憲法発効後、連合国4カ国はこれを承認し、国連加盟も認められました。


現在のオーストリア(Wikipedia Commons)

参考:
*1 江村洋、「ハプスブルク家」
*2 土肥恒之、「ロシア・ロマノフ王朝の大地」
*3 菊池良生「神聖ローマ帝国」
*4 増谷英樹・古田善文「図説オーストリアの歴史」
*5 安達正勝「物語 フランス革命」

つづく