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  ドブロブニク(2) Dubrovnik

青山貞一Teiichi Aoyama
April 2007  無断転載禁
CopyRight:Aoyama T.
       
(1)概要 (2)歴史@ (3)歴史A (4)景観 (5)建造物 
(6)建造物
 (7)城壁 (8)再生・修復  (9)自由・自治 


●ドブロブニクの歴史

■ドブロブニク誕生〜創世期〜


 ドブロブニクは、7世紀半ば以前にエピドウラム(Epidaurum)、現在のクロアチア南部でドブロブニクからさらに南に18km下ったところにあるツァブタット(Cavtat)から逃れてきた難民グループにより発見された。

 ※ちなみに2007年3月の現地調査で筆者等はそのツァブタット(Cavtat)に
   あるアパートメントに5日間宿泊した。アパートの真ん前にドブロブ行きバス
   の停留所があり非常に便利だった。ちなみにドブロブニク行き路線バスの
   運賃は片道12クーナ(Kuna)、約250円である。
 
 
最新の調査によると、ドブロブニクは紀元前の古代にイーリア人が住んで いたとされる。イーリア人の後には、古代ギリシャからヘレネス文明がもちこまれいたと言う。これは後述するモンテネグロ南部の古都、小規模都市国家であるコトルの歴史からも想定されることである。


宿泊先アパートのテラスから見たツァブタットのまちなみ


ドブロブニク旧市街とツァブタットとの位置関係

 ツァブタットから来た難民グループが島で移住し居住を開始したとき、ひとびとはこの島をラテン語でラグーサ、クロアチア語でラウーサと命名した。以降、永きにわたり、ドブロブニクはラグーサ(ラグーサ共和国、Republic of Rausa)と呼ばれることになる。

 かくしてドブロブニクは、ラグーザと呼ばれた。ちなみに、ラグーサという名称が最初に使用された年号は西暦667年である。

 ※ちなみにドブロブニクという地名は、1189年である。1272年に
   つくられたStatute Lober Statorun Civitatis Ragushという文書の
   なかに、海外貿易で諸外国との外交政策、共和国の立法(法律)
   とともに、ドブロブニク共和国の名称をみることができる。


 ドブロブニクは島外沿岸地域に居住するひとびとが野蛮な外からの侵入者による猛攻撃から難を避けるため、強固な城壁を持った都市国家の建設を開始することになる。7世紀のことである。

 ※アドリア海に面する都市国家には、ドブロブニク以外にヴェネチア共和国
   現在のイタリアの小都市国家群があるが、日本ではほとんど知られてい
   ない小都市国家として、現在のモンテネグロ南端、アドリア海の入り組ん
   だ入り江に面するコトールがある。このコトールの起源は紀元前にさかの
   ぼり非常に古い。2007年3月の現地視察ではこのコトールにも訪問した。


 ドブロブニクと言えば最高で37mにも及ぶ堅牢な城壁が有名である。この島を取り巻く城壁は7〜8世紀に構築がはじまり15世紀に完成する。それは、上述のように当初、それはドブロブニクがラグーザと呼ばれていた時代に外敵から島民を保護するために造られた。

 難民グループが居住を開始した島の反対側にある山の麓に、奴隷が居住地を開発していた。そのスラブ人グループが島の居住地をラグーサ(ドブロブニク〜といっていたことになる。

 これら2つの島民グループの居住地は、当初水路によって分けられていた。


水路が埋め立てられる前のドブロブニク旧市街
(青山貞一が現地で資料から撮影)

 上記の水路は12世紀に埋め立てられる。以来ふたつの居住地は結びつく。

 2つの島民グループはその後、結束してアラブ、ベネチア、マケドニア、セビリアなどの外敵からまちを守ることになる。分厚く、堅牢な城壁はその象徴である。

 ラグーサ共和国は、866年から867年にかけビザンチン帝国の影響を15ヶ月間支配下に入る。

 9世紀末から12世紀にかけラグーサ共和国は、外敵であるサラセン、ブルガリアそしてセビリアなどに対しビザンチン帝国の抑止力をうける。

 ※ビザンチン帝国は、東ローマ帝国ともいう。その位置はコンスタンチ
   ノープル、現在、トルコの首都のイスタンブールである。


■第4回十字軍遠征から共和国独立までの歴史

 その後、第4回目の十字軍遠征隊が1204年にラグーサ(ドブロブニク)に来る。

 1204年、第4回の十字軍はベニス共和国艦隊の支援を受け、ビザンティン帝国首都のコンスタンティノープル(今のトルコのイスタンブール)を攻略する。援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て、ベニスは東地中海最強の海軍国家となった。その際、ベニスを出航した十字軍はラグーサ共和国に立ち寄る。

 ちなみに、この第4回目十字軍については、次のようなエピソードがある。

 第4回十字軍は、1202年から1204年に行われた。十字軍はエルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。だが、当時この第4回目の十字軍遠征は渡航費にも事欠くありさまであった。この第4回目の十字軍の海上輸送を請け負ったのがベニス共和国である。何と、この第4回の十字軍は、輸送料の不足分支払のためハンガリーのザラを攻略した。これは同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことを意味し、ローマ教皇から破門されることとなっt。

 ついで第4回十字軍は東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルを征服、この際、十字軍側によって、コンスタンティノ・ポリス市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯が皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇はそれを追認、さらに第4回十字軍にエルサレムを目指し遠征するよう要請するも実施されなかった。


 1205年から1358年までドブロブニク共和国は、当時、アドリア海沿岸地域に圧倒的で強大な権力を誇示していたイタリアのヴェネチア共和国の統治下に置かれる。当時王に貢ぎ物を届けるなどラグーサ共和国には完全な自治はなくかった。

 1358年、その後ベネチア国王より自由を得たラグーサ共和国は、ドブロブニク共和国という名前を登記、自由都市となり、ハンガリー・クロアチア王国(中世にあってクロアチアはハンガリー共和国のもとにあった)の庇護のもと一ザーダルと平和条約を結ぶ。


ドブロブニク旧市街プラカ通りの土産物屋には
ベニス旧市街の土産物屋で有名な仮面が多数あった。
(青山貞一が現地で資料から撮影)

 ドブロブニク共和国は、オスマントルコ帝国がバルカン半島から北アフリカ、欧州の一部を支配していた時代にも、堅牢な城壁により自由都市は守られていた。


1300年代のドブロブニク共和国(ラグーサ共和国)の立体地図
(青山貞一が現地で資料から撮影)

■アドリア海交易による経済繁栄の時代

 ラグーサ共和国(後のドブロブニク共和国)は、近隣地域と友好的な関係を持ったこともあり東洋と地中海地域の海運中継基地として大いに栄えた。同時に多数の地方都市と特別協定を結ぶことにより、販売品の輸送税を減免されるなどの恩恵を受けた。

 14世紀から16世紀、ドブロブニク共和国は、沿岸部で勢力を拡大、他の地中海都市と商業取り引きをすることにより、同共和国の歴史上、まれにみる繁栄を謳歌する。

 解釈にもよるが、ドブロブニク共和国は、最低でも4世紀、最長8世紀にわたり、アドリア海の南部で最も強力な経済センターとなる。産業には、アドリア海の特性を生かした海外貿易が盛んとなった。なかでも塩の輸出が特筆される。

 それらはドブロブニクの商人の財力を高め、強力な船隊を開発させドブロブニク共和国はアルゴシーと呼ばれる200隻以上の商船を持つに至った。この時期、ドブロブニクの船乗りは4000人を誇っていた。


往時の船のレプリカ
Source:in Dubrobnik Winter 2006

 14世紀の黄金時代、ラグーサ共和国の領土は北のKlek-NeumからSutorina(Boka Kotorska)まで拡大した。島外におけるドブロブニク共和国の沿岸領土は長さで約120kmに及び、1414年から1417年には他の沿岸地域も領有する。

 15世紀、ラグーザ共和国はアドリア海の水路支配をめぐり、ベニス共和国の主要なライバルとなる。ラグーサは近東やヨーロッパと海運貿易を行っているが、 それはいわば抜け目のない外交であり、自らの独立を維持しつつ、文化的かつ政治的な影響を拡大した。

 この時代、ドブロブニクは、ペリッサ半島からコナバルにかけ大規模な地域を治めることになる。

■経済繁栄から大地震、ナポレオン侵攻までの歴史

 ラグーサ共和国はその後、アドリア海の水路支配権をベニス共和国に貸与せざるをえなくなるが、ドブロブニク共和国は、15から16世紀を頂点に都市国家そして自由都市として栄える。

 1526年、ドブロブニクはオスマントルコのサルタンの支配権を承認。ついでアドリア海から地中海への出荷停止の危機が起こる。

 1667年4月6日の壊滅的な大地震が発生する。

 この大地震では数1000人の市民が死亡、公共建築の大部分が壊れれた。

 ドブロブニク共和国の安寧は全面的に破壊。ルネッサンス芸術と建築物の大部分も破壊される。奇跡的にスポンツア(Sponza)宮殿とレクター(Rector)宮殿が破壊を免れた。

 大地震による大惨事、甚大な被害にもかかわらず、ドブロブニクは市民の献身的な努力により現在の旧市街を再建する。


1667年の大地震以前のドブロブニク、ほぼ現在とおなじ構成のまちなみ

(青山貞一が現地で資料から撮影)

 大地震の後、ドブロブニクは財力が減退したことも重なり、他の欧州海軍、列強の出現で衰退する。

 にもかかわらずドブロブニク共和国とその市民は、献身的な努力により都市の壊滅的な破壊を回避するだけでなく、蓄えた資財を元にまちを修復するも、全面的な修復はままならなかった。この時以来、上の立体地図にあるように、ドブロブニクは現在観光客が見れる旧市街のまちなみ、すなわちバロック様式の建築スタイルで再建することとなる。

 1806年、ロシア・モンテネグロ船隊がドブロブニクに3000発の砲弾をうちこむ。フランス軍がロシア・モンテネグロ船隊を攻撃、ドブロブニクを救ったが、この年、ナポレオンに率いられたフランス軍がドブロブニクに進攻、1808年、司令官のMarmotは都市国家、自由都市であるドブロブニクの共和制の廃止を宣言、ドブロブニクのすべての領土はナポレオンの指揮下に入り、都市国家、共和制ドブロブニクはここで終止符をうつ。

 1809年、ドブロブニクはナポレオン指揮下のフランスのイリアン州として、ボナパルトがナポレオン体制を崩壊させるまでナポレオン指揮下に入る。

 ナポレオンがオーストリアに敗れ1815年、ウィーン会議でクロアチア・ダルマチアはしてオーストリアの支配下に入り、ドブロブニクはダルマチア王国、次いでオーストリア・ハンガリーの一部として統合される。

 1848年、反ハプスブルグ革命の偉大な波がクロアチアに押し寄せ、この年、ダルマチア、クロアチアの大スラブ統合がなされる。 このように一時的にフランスの統治下に陥いるなど、ドブロブニク共和国は独立維持の危機に立たされる。

 中世の希有な都市国家、ドブロブニク共和国は、世界の歴史のなかでフランス、イギリス、オーストリア、ロシア、オスマントルコなど列強からの度重なる侵略を受け、そのたびに危機に瀕するものの共和国体制を回復する。

クロアチアの歴史

 9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方からビザンツ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチアはカトリック一員となっている。

 こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミルがクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴ王のもとで発展をとげるが、彼の死後しばらくして後継者争いから内乱へ突入した。このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーンが、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。

 これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラヴォニアはハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン(バーン)と呼ばれた。この後15世紀にはオスマン帝国に征服されその領域に組み込まれるが、18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている。


現在のクロアチア

 1848年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチアに対して認めていた自治権も併せて実態的には「オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。

 一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になるまでヴェネツィアの支配が続く。なおオーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。

 1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したクロアチアは、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラヴィアに改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州を設定したが不完全な対応であった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

つづく