■プラハ城のすべて(目次)
(1)世界史とグーグルアース (2)チェコ・プラハの歴史
(3)ヤン・フスのこと
(4)プラハ城に入る (5)プラハ城の歴史 (6)プラハ城の建築
(7)ヴァルダヴァ川とカレル橋
私は海外に行く場合でも、どこに行く場合でも、必ずあらかじめ行き先の歴史や文化を勉強しておく。
大学では幸い図書館長をしていることもあり、個人的には高額な外国語の歴史書でも入れてもらえることもある。そんなこともあり、たとえば最近ならクロアチアのドブロブニクに行くときは、中世から近世にかけての欧州の歴史の著書をしっかり読んでからでかけた。
そうしないと、たとえ国際会議のついでであっても、せっかく高額の航空運賃とホテル大を掛けて行く、外国での日程が単なる表面上、外見上の観光旅行となってしまうからだ。
ところで、私にとってプラハといえば「プラハの春」か、チェコ人の精神的よりどころとなっているヤンフスとの関連でみる「プラハ城」である。
プラハは初代チェコ大統領のマサリクが信奉したヤン・フスが火炙りになるまで宗教改革が盛んとなった場所でもある。
ここで本題に入る前にチェコやプラハの歴史、それにチェコ(ボヘミア)人の心のふるさととなっているヤン・フス(Jan Hus)について一通り、おさらいしておこう。
■ヤン・フス(Jan Hus)のこと 参考・出典:Wikipedia
※ 大辞泉にみるヤン・フス 【Jan Hus】
ボヘミアの宗教改革者。プラハ大学学長。ボヘミアの民族主義を背景に、
ウィクリフの影響を受けて聖書中心の教説を展開し、世俗化した教会を
批判。多くの支持者を得たが破門され、コンスタンツ公会議の結果火刑
に処された。
歴史的にチェコ人の心のふるさとでもあるヤン・フス(Jan Hus)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。プラハ大学の総長も歴任、イングランドジョン・ウィクリフを信奉し宗教運動へ。
ゴルツ・キンスキー宮殿近くの広場に建てられたヤン・フス像
フスは当時のローマカソリック教会が、本来あるべき聖書主義から今でいうハコモノ主義となてゆくこと、また十字軍への遠征費などを得るために信者、民衆にお布施を強要するなど堕落していることを批判し、宗教改革と教会改革に邁進する。
だが、カトリック教会は、フス派の改革を反乱とみなし1411年、フスは破門される。その後、ヤン・フスは有名なコンスタンツ公会議(ドイツ)にかけられ有罪とされるだけでなく、火炙りにされてしまった。
当時、欧州のひとつの中心はボヘミア、今のチェコ及びその周辺地域にあり、プラハはその中心地であった。さらにカソリック教会の中心はがまさにプラハ城にあった。
フスが宗教改革の延長で火炙りにされたのは、かのマルティン・ルターの宗教改革が1500年代であるから、ヤン・フスの宗教改革が「先覚的」なものであったかが分かる。
免罪符 出典:Wikipedia
大司教ズビニェク・ザイーツが1411年に死去し、ボヘミアの宗教運動は新しい局面に入った。
すなわち、免罪符に関する議論の高まりである。
1411年に教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を庇護するナポリ王国のラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣した。十字軍の遠征費用を賄うため、教会は免罪符の売買を始めた。プラハでも、免罪符の説教者は人々を教会に集め、寄進を勧めた。
フスは、当時イングランドにいたウィクリフの例を出して免罪符にはっきりと反対し、有名な改革論を書いた。1412年に、フスが発表した論文(Quaestio
magistri Johannis Hus de indulgentiis)によって論争が引き起こされた。
その論文は、ウィクリフの著書 (De ecclesia)の最終章とフスの論文 De absolutione
a pena et culpaからの引用だった。ウィクリフとフスは、教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきであると主張した。
人は真の懺悔によって赦しを得、金では購うことはできないのである。この主張のため、フスは大学に留まることができなくなった。
民衆は、詐欺的な姦通者と聖職売買者の集まりのようなローマ教会よりも、フスに従うべきだ、と考えた。神学部の学者たちはフスの主張に反論したが、民衆は信じなかった。
ほどなく人々は、ヴォク・ヴォクサ・ヴァルトシュテイン(Vok Voksa z Vald?tejna)によって導かれ、教皇の教書を焼き捨てた。説教の途中で説教者をはっきりと否定し、免罪符を欺瞞と言った下層階級出身の3人の人が斬首された。かれらはフス派の最初の殉教者だった。
神学部はフスに司祭のために、演説をし教義を提示することを要求したが、彼は拒否した。とかくするうちに、学部は55の論文を新たに異端と宣告し、フスが考え出した幾つかの論文も異端に加えた。王はこれらの論文を教えることを禁止したが、フスと大学のどちらが正しいとしたわけではなく、論文の異端性を最初に証明することを要求した。
コンスタンツ公会議 出典:Wikipedia
3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させ教会を正常化するために、1414年11月1日にコンスタンツ公会議が召集された。
公会議を召集した皇帝ジギスムントは、ヴェンツェル(ボヘミア王、元皇帝)の弟でボヘミア王の後継者にあたるが、国から異端者を無くしたいと強く願っていた。
ジギスムント皇帝がフスも招待したので、全ての議論を決したいと願うフスは喜んでコンスタンツへの訪問を決めた。
ジギスムント皇帝は、会議中の彼の身の安全を保障した。 フスのいつもの説教から判断すると、彼は明らかに自分の教義
(つまりウィクリフの教義)を教会の教父達に説こうとしていた。 教義の正統性を示す十分な供述を準備し、自らの死を予見したかのように遺書をしたためた後、フスは旅立った(1414年10月11日)。
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コンスタンツ会議のヤン・フス。その後有罪とされ火炙りとされる! |
Painting of Jan Hus at the Council of Constance by Vaclav Broik (1883).
Source: Wikipedia, the free encyclopedia
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11月3日にフスがコンスタンツに到着したところ、翌日には教会の扉に掲示が出され、「異端者フスの討論相手はニェメツキー・ブロトのミハル(Michal z N?meckeho Brodu)である」と公示された。
最初、フスは自由に住居を決められたが、フスの敵対者が悪いうわさを広めたため、数週間の後には牢に入れられることになった。
フスはまず聖堂参事会員の邸宅につれられ、その後12月8日に、 ドミニコ修道院の地下牢に入れられた。
ジギスムント皇帝は、フスの安全保障が無視されたことに激怒し、 高位の聖職者を解任しようとしたが、その場合は議会も解散しなければならないので、結局はなりゆきに任せた。
12月4日、教皇は3人の司教からなる委員会にフスの予備調査を委任した。 告発者側は3人の証言者が尋問されたが、フスには1人の証言者も認められなかった。
退位を迫られてコンスタンツから逃亡していた教皇ヨハネス23世がついに廃位されたことにより、フスの状況はさらに悪化した。
これまでフスの身柄は教皇の監視下におかれ知人との連絡が可能だったが、廃位後、彼の身柄はコンスタンツの大司教の元に渡され、大司教の居城であるライン川のゴットリーベン城に送られた。
そこでフスは、知人との連絡を絶たれ、昼夜を問わず鎖につながれ、わずかな食事だけを与えられ、病にも苦しみながら73日間にわたり幽閉された。
フスの審判 出典:Wikipedia
公判のためにフスはフランシスコ会の修道院に移され、そこで人生最後の数週間を過ごした。
6月5日に初公判が開かれた。 フスは、パレツ等に対抗した教会論を自著と認め、「もし自分が間違っていると証明されれば喜んで改める」と宣言した。 公判では、フスには、自分に対する非難に短く要約して答えることしか許されなかった。
彼はウィクリフを崇拝しており、自分の魂もいつかウィクリフと同じところに昇りたいと認めたものの、ウィクリフの聖餐論や45箇条の教義を擁護したことは否定した。
ジギスムント皇帝は、異端者を擁護はしたくなかったので、フスに公判で罪を認め慈悲を請うようにと忠告した。
6月8日の最後の裁判で、非難者側によって39項に及ぶ記述が読み上げられた。
そのうち26項はフスの教会論から抜粋した記述で、7項はパレツに対抗するフスの論文からの抜粋で、残る6項はスタニスラフ・ツェ・ツノイマに対する論文からの抜粋だった。
非難者側は、これらの教義が世の中に危険であると一文ずつ説明し、皇帝がフスに悪感情を持つように煽った。
フスは再び、もし彼が間違っていると証明されたら従うと宣言し、より公平な審判と、彼の主張の理由を説明する時間を求めた。
しかし、フスはその場で4項目を認めるように要求された:
- 彼が今まで主張してきたことは誤っていた。
- 今までの主張を将来も放棄する。
- 今までの主張は撤回する。
- 今までの主張と反対のことを正しいと認める.
フスは、「今まで教えたこともない教義の撤回などできない」と答え、公判の非難は誤解に基づいており、己の良心に反する行動は取れないと訴えた。
このようなフスの言動は、公判で好意的には受け取られなかった。
6月8日の公判の後、フスを翻意させるように数回の審問が行われたが、フスの意思は変わらなかった。 ジギスムンド皇帝は政治的に判断し、フスが彼の国に帰るのは危険で、異端者の処刑はみせしめとしていくらかの効果がある、と考えた。 フスはすでに生き永らえる希望は持っておらず、心中では殉教を望んでいた。
有罪の宣告そして焚刑 出典:Wikipedia
フスの判決は、7月6日、公会議の参加者を大聖堂に集めた荘厳な場面で宣告された:
荘厳なミサと聖餐式の後、フスが大聖堂に連れ込まれた。 ローディの大司教が、異端を撲滅する義務について説教を行った。
そして、フスとウィクリフが行った異端の一部と、これまでのフスの裁判の報告が読み上げられた。
フスは何度か大声で抗議した。 キリストに対する訴えまでもが異端的として禁じられたとき、彼は「神と主キリストよ、審査会は私たちを虐げるときに、いつも主なる神を裁きの理由に挙げてきた。それなのに、いまや審査会は自らの行動と法すらも異端と断じようとしている。」と叫んだ。
そして、フスと彼の論文に対する有罪判決文を読み上げられると、フスは再び「今でも自分の望みは正しく聖書にしたがって裁かれることだけだ」と大声で抗議した。
そしてフスはひざまずいて、敵対する全ての人を許すように、低い声で神に祈った。
その後、聖職剥奪が行われた。 フスは聖職者の法衣に着替えさせられ、再び、主張を撤回するよう求められた。 彼が再び断ると、ののしりの言葉と共に法衣を剥ぎ取られ、聖職者としての剃髪は乱され、彼の聖職者の権利は全て剥奪され世俗の力に引き渡されるとの宣言が読み上げられた。 フスの頭には「異端の主謀者」と書いた高い紙帽子がかぶせられた。
杭にかけられて焼かれるフス
Source: Wikipedia, the free encyclopedia
フスは、武装した男たちによって火刑の柱に連れて行かれた。 処刑の場でも彼はひざまずき、両腕を広げ、声高に祈った。
フスの告解を聞いて許しを与えよという人もいたが、司祭は、異端者の告解は聞かないし許しも与えない、と頑固に断った。 死刑執行人はフスの衣類を脱がし、両手を後ろ手に縛り、首を柱に結び付け、彼の首の高さまで薪とわらを積み上げた。
最後になって、皇帝の家臣フォン・パッペンハイム伯は、フスに主張を撤回して命乞いするようにすすめた。 しかしフスは、「私が、間違った証言者に告発されたような教えを説いていないことは、神が知っておられる。私が書き、教え、広めた神の言葉の真実とともに、私は喜んで死のう。」と述べて断った。
下は、ヤン・フスが火炙りになる直前の絵である。
Preparing the execution of Jan Hus.
Source: Wikipedia, the free encyclopedia
火がつけられると、フスは声を高めて「神よ、そなた生ける神の御子よ、我に慈悲を」と唱えた。
これを3回唱え、「処女マリアの子よ」と続けたとき、風が炎をフスの顔に吹き上げた。
そして、フスを悪魔とみなす敬虔な老婆がさらに薪をくべると、“O, Sancta
simplicitas”(おぉ、神聖なる単純よ)と叫んだ。
彼はなおも口と頭を動かしていたが、やがて息をひきとった。 フスの衣類も火にくべられ、遺灰は集められて、近くのライン川に捨てられた。
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フス戦争の始まり 出典:Wikipedia
かくしてヤン・フスは異端者として火炙りの刑にされ亡くなったが、その後、フス戦争がチェコやドイツで多数起こることになる。
フス戦争は、ヤン・フスの開いたキリスト教のプロテスタントであるボヘミアとポーランドを中心とするフス派信者と、それを異端としたカトリック、神聖ローマ帝国の間で戦われた戦争である。
フス戦争は、1419年から1436年にわたる17年間、フス派信者が起こした継続的な反乱。ヤン・フスが処刑されたことを契機にチェコに宗教改革の嵐が生ずる。
1419年のプラハ市庁舎窓外抛擲事件をきっかけとなった。当時の国王ヴァーツラフ4世がこの事件をきっかけに死ぬと、ルクセンブルク家のジギスムントに対するヤン・フスを処刑させた神聖ローマ皇帝への反感から反乱はエスカレートする。
ジギスムントはローマ教皇マルティヌス5世の勅書を得、フス派の討伐に乗り出す。しかし、フス派はこれを迎撃し、1420年、ジシュコフの丘で皇帝率いる異端撲滅十字軍を粉砕してしまった。
以降、フス派はドイツから繰り出される数次に及ぶ異端撲滅十字軍をすべて撃破する。
フス派は神聖ローマ帝国に侵攻し帝国の多くの都市はフス派の猛攻に屈服した。当時、ドイツ人は無敵のフス派を恐れた。
以下はフス戦争の時系列的詳細である。
1419年、第一次プラハ窓外投擲事件を契機としてフス派戦争が始まった。
プラハ窓外投擲事件 出典:Wikipedia
マスケット銃の発明により、フス戦争はヨーロッパ史最初の手銃器を使った戦いと言われる。
1420年代初頭にヤン・ジシュカの生み出した銃器と戦車(馬車の一種)とそれを活用する戦術によって、当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破った。
ヨーロッパ諸国を敵に回したフス派は貴族や庶民が団結し、当時の国王の私兵である軍隊ではなく、市民軍の原型のような軍隊を作り上げた。
ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度もフス派に対する十字軍を組織したが、ことごとく打ち破られた。
1431年に行われた対フス派十字軍では、ポーランド王国から6000人のフス派義勇兵がやってきてボヘミアのフス派を支援した。この十字軍では、対陣中にフス派が聖歌を歌いだすとフス派軍の突撃を恐れた十字軍がたちまち壊走した、という逸話が伝えられている。
1434年、ボヘミアのフス派の間では内部抗争が起こり、リパニ(Lipany)の戦いで大プロコップと小プロコップが率いたターボル派がウトラキストいう派閥によって壊滅させられ、皆殺しになった。
さらに1439年、既に王が代替わりしてヴワディスワフ3世となりフス派と敵対していたポーランド王国でも、グロトニキ(Grotniki)の戦いでポーランドのフス派が敗北し、これによってフス戦争は終わった。
その後もウトラキストの系統が分派しプロテスタント諸派としてボヘミアで根強く政治的影響力を保ち続け、1458年にはラースロー5世ことハプスブルク家のラディスラフの死後、プロテスタント系ボヘミア貴族の子であるイジー・ポジェブラトをボヘミア王に擁立し、ハプスブルク家を中心とする勢力はハンガリー王フニャディ・マーチャーシュを1469年にボヘミア王に擁立して互いに対立した。
1471年にイジーが死ぬと、プロテスタント貴族によってヤギェウォ家のポーランド王カジミェシュ4世の息子ヴワディスワフが迎えられ、ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーとしてボヘミア王に即位した。ボヘミア王を主張し続けたマーチャーシュが1490年に死ぬと、ポーランドから来たボヘミア王ヴラジスラフはハンガリー王ウラースロー2世としても即位し、ボヘミアとハンガリーの王となった。以後ボヘミア王国ではプロテスタントが認知され、しばらくの間安定した。
1620年、白山の戦いでスラヴ人かつプロテスタントであったチェコ貴族が全滅させられ、ドイツ人かつカトリックであった貴族が支配者としてチェコに入ってきた。
以後チェコは完全にドイツ人の支配下に入る。一部のプロテスタント貴族やその追従者は必死で逃げ延び、宗教的に寛容で当時は特にプロテスタント運動が盛んだったポーランド王国に亡命した。
18世紀後半に入ってポーランド王国がポーランド分割によって滅亡すると、多くが新天地を求めてアメリカなどへ移住していった。
■チェコのチェコの民衆の心の支えとしてのヤン・フス
1915年、フスの没後500年を記念し、ゴルツ・キンスキー宮殿近くの広場にヤン・フスの群像が建てられた。
ゴルツ・キンスキー宮殿近くの広場に建てられたヤン・フスの群像
Source: Wikipedia, the free encyclopedia
ゴルツキンスキー宮殿前の広場 Source:Google Earth
この彫像にはフスの周りにフス派の戦士やチェコを追放された新教徒などが取り巻いている。また台座にはチェコの初期の国旗にもある”真実は勝つ”の文字が彫られている。
真実は勝つ
ヤン・フスは今でもチェコの人々の精神文化の核、そして誇りとなっているのである。
つづく
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