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 <初秋の信州街道と秘湯探訪A>
「鹿沢温泉」と「新鹿沢温泉」

青山貞一

 2008年9月17日

転載禁

■秋の信州街道と秘湯の旅
 @田代湖と鹿沢高原
 A鹿沢温泉と新鹿沢温泉
 B信州街道と万騎峠
 Cかやぶきの郷、薬師温泉・旅籠

 12日の午後、休暇村 鹿沢高原からさらに鹿沢、湯の平方向に行う。以下の地図では、鹿沢高原キャンプ場からの鹿沢温泉を通り、信州湯の丸スキー場に向かった。


湯ノ丸峠、鹿沢高原一帯の地図  が鹿沢温泉


湯ノ丸峠、鹿沢高原一帯の地形図  が鹿沢温泉

 途中、下の写真にある「たまだれの滝」という看板に出会った。たまだれの滝は、県道94号線と桟敷山の間で道路沿いに位置している。

 結局、時間の関係で「たまだれの滝」までは行かなけなかったのだが、道沿いにすばらしく透明度の高い池があった。ここで、しばし静寂と水を体感、堪能する。人間にとって水と空気が清浄であることはこの上なく大切であることを実感する。

 こんな綺麗な水にはなかなかお目にかかれないほどの水であった。


たまだれの滝の案内板
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10


撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10


たまだれの滝が流れ込む池。透明度は抜群!
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10


たまだれの滝が流れ込む池。透明度は抜群!
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10

 
たまだれの滝周辺はこんな深い山奥! 下に吾妻屋が見える。


たまだれの滝の周辺1800−2100mの山脈が連なる
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10

 
冒頭に書いたように今回は、時間の関係もあり、たまだれの滝までは行かないことにし、滝そのものは次回におあずけとする!

 
この後、たまだれの滝」から鹿沢温泉を通過し、湯の丸高原まで行く。 途中、下の写真にあるような白樺の林やすばらしい自然景観に出会う。


湯ノ丸高原近くの白樺の林
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10


湯ノ丸高原近くの白樺の林
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10

 「湯の丸」峠にはスキー場があり、冬には廃ったとは言え、スキー目当てで学生や若者が来るらしい。実際、芝浦工業大学、東京工業大学などスキー合宿目的の大学の宿泊施設がたくさん見受けられた。

 おそらく冬季にこの湯の丸地域は若い人でにぎわうんだろうが、夏から秋は単なる峠の駐車場にすぎない場所だ。ここで湯の丸峠から鹿沢に向かって引き返し、温泉に入る。


撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10

 「湯の丸」には鹿沢温泉を目当てで行ったのだが、残念ながらいわゆる鹿沢には日帰り温泉はほとんどない。全体の数も非常に少ない。 そこで、「新鹿沢温泉」で我慢することにした(笑い)。

 途中、多数の道祖神にあう。下は第84番の千手観音。


湯の丸から鹿沢には多数の道祖神があった。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10


湯の丸から鹿沢には多数の道祖神があった。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10

 鹿沢温泉でもらったパンフレットに、道祖神の解説があった。何でも百体の観音像があり、そのうち81番から100番が鹿沢にあるとのこと。上の写真は84番の観音像である。


出典:鹿沢温泉郷を紹介するパンフレット

 新鹿沢では「鹿沢館」など数件が日帰り温泉をしていた。結局、もたもたしているうちに時間が過ぎ、「鹿沢館」の日帰り入浴にぎりぎり間に合った。ギリギリ間に合ったという意味は、午後5時までした日帰り客には温泉を開放していなかったためだ。

 とはいえ、新鹿沢温泉は鹿沢温泉からの引湯だという!


日帰り入浴した新鹿沢の鹿沢館
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10

 ※ 新鹿沢「鹿沢館」のWeb  ※ 「鹿沢館」の温泉分析表


撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10

 「鹿沢館」の温泉質は源泉掛け流しで温度も43度以上ある本格的な温泉である。

 私たちが入った時は、他の客はまったくおらず、男湯、女湯ともに貸し切り状態となった。ラッキーである! 日帰り入浴料金は大人一人500円である。

 下のパンフを見ると、新鹿沢には12ほどの温泉がある。


出典:鹿沢温泉郷を紹介するパンフレット

 なお、鹿沢温泉は日本で最も古い温泉の一つとのことだ。以下は、信州加沢郷薬湯縁起からの一節。

 「孝徳天皇、白薙元(650)年に、里人、信州の加沢というところの山峯より、光明さすをあやしみ、そこの煙にしたがい来てみると、熱湯が地より湧出を見る。さらに聞えけるは『われ東方薬師如来なり、されば一切衆生老病死の四苦あり、其の苦しみをたすけ、寿命長穏の薬をあたへ、現世の身心をやすらかにせしめ、困苦をすくい処に至らしめんために、薬師の号を得たり』」  

 明治四十四年の浴客数は、男性三千人、女性二千人、の計五千人。大正時代には客数も増え、十二年ごろには男性約七千六百人、女性約五千六百人。このように湯治場として発展していったのですが、大正七年の火事で温泉街は壊滅。その後引湯管を整備して、旅館は一軒を残して現在の新鹿沢温泉の場所に移転しました。これが新鹿沢温泉です。

 
上記、黄色部分の出典:軽井沢日記
 
 ということで、軽井沢日記から鹿沢温泉そして新鹿沢温泉の成り立ちも分かった。引湯している理由もよく分かった次第である! 

鹿沢温泉

 湯の丸山の中腹に位置し、天然記念物の「レンゲツツジ群落」も近くに有る。温泉は鹿沢温泉と、新鹿沢温泉の2つに分かれ、両者は距離も離れている。この2つは区別される場合と一緒に扱われる場合がある。

 鹿沢温泉は標高1500mの高所にあり、日本秘湯を守る会にも属する一軒宿の紅葉館が存在する。新鹿沢温泉は標高1300mの高所にあり、鹿沢温泉からの引湯であり、旅館やホテルが多数ある。また周辺にはスキー場も多い。

 650年頃の発見とも言われているが定かではない。開湯伝説は元禄年間に、鹿が傷を癒している所を発見したとされており、温泉名もこれに因んでいる。

 以前は、鹿沢温泉周辺の一帯が、祢津領(現在の長野県東御市祢津)の領地であったが、後、群馬県に編入された。

 湯治場として発展していったが、大正7年の火事で温泉街は壊滅した。その後引湯管を整備して、旅館は一軒を残して現在の新鹿沢温泉の場所に移転した。

 鹿沢温泉は雪山賛歌の発祥の地である。当時京大山岳部の学生であった南極越冬隊初代隊長の西堀栄三郎が、冬場雪によって旅館に足止めをされた際に、退屈しのぎに作成したという。

昭和43年11月19日、国民保養温泉地に指定。

出典:Wikipedia


温泉番付

 温泉番付が初めて作られたのは、江戸時代の寛政年間といわれている。当時歌舞伎役者の人気を相撲の番付風に格付けした、見立て番付が流行した。同じようなものが数々のジャンルに対して作成され、温泉番付もその中の1つとして作成された。その番付は効能の高さを元にランク付けされている。そのため、番付によっては温泉名の上に効能が記述されているものもある。番付の東西は、大相撲の番付の考え方と異なり、単に東日本の温泉は東に、西日本の温泉は西に番付されている。但し、幕内下位の西日本の欄には東日本の温泉が一部入っている。

 温泉番付は江戸、大坂など、町人文化が発達したところで町人によって作成され、その後各地の温泉地でも作成された。この時代の番付の特徴としては、

  1. 作成された場所により、温泉地の番付に変化がある
  2. 誤字脱字、該当温泉地が不明のものがある。

 1の理由としては、近くの温泉や自分の温泉地をひいきにしたりすることが多かったためである。2については、当時は街道は発達していたが町人が自由に旅行することは難しく、他の旅行者の評判や既存の温泉番付を参考にして番付に反映させていた。その結果人伝えに情報が伝えられるうちに誤字脱字や、該当不明の温泉地が発生しそれがそのまま掲載された。

 作成された場所により温泉番付の中身は変化があるが、どの番付でも大関(当時最高位)は草津温泉と有馬温泉、勧進元は湯の峰温泉(番付内では本宮の湯として登場)である。

 江戸時代に流行った温泉番付は明治時代以降も製作されたが、徐々に番付を行う風習は廃れていった。

 現在では温泉の格付けはベスト10、ベスト100形式が主流であるが、松田忠徳など温泉評論家により番付が作成されることがある。また、野口冬人による露天風呂番付や、共同浴場番付など特定の分野に特化した番付も作られている。

出典:Wikipedia

つづく

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