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増上寺の宝物

御南霊屋台徳院霊廟跡(丸山古墳)

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


September 18 2015

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◆東京芝の増上寺の宝物
@阿弥陀如来立像 黒本尊祈願会
A三大経蔵(宋版・元版・高麗版)
B戦前の南北御霊屋・霊廟・宝塔の行先
C御南霊屋の台徳院殿奥院・宝塔(丸山古墳)
D大英博物館から里帰りした台徳院霊廟模型
歴代徳川将軍家家系

 下の昭和20年戦災以前の増上寺御霊屋図の下側(南側)の赤い線内が御南霊屋に相当します。
 

昭和20年戦災以前の増上寺御霊屋図と訪問場所(赤枠内)

 上の図にある御南霊屋のなかで最も壮麗で日光の東照宮に勝るとも劣らないとされたのが、台徳院霊廟ですが、この台徳院霊廟は第二次世界大戦の米軍による空襲で全面的に焼失しています。


◆戦前の御南霊屋の台徳院霊廟・宝塔

 9月15日、青山、池田が御南霊屋を視察したのは、その台徳院霊廟のさらに南にあった台徳院の奥院・宝塔さらには五重塔があった場所です。

 下の地図はまさにその御南霊屋を描いたものですが、台徳院の奥院・宝塔は、下の絵図の中央上、緑がこんもりとしている小高い丘の上にあります。霊廟から奥院・宝塔に行くまでには、かなりの段数の階段があるかが分かります。またそのすぐ隣には五重塔があります。江戸時代の絵図なので丘の高さは正確には分かりませんが、周辺に林があることも分かります。

 これら台徳院の奥院・宝塔や五重塔は台徳院霊廟、崇源院霊廟同様、第二次世界大戦で焼失しているのですが、台徳院の奥院・宝塔があった場所は、小高い丘の上であり、さすがに第二次世界大戦でもその丘は破壊されておらず、よほどの巨大開発で地形改変されていない限り、現在でも残っているはずです。


主に御南霊屋を表す江戸時代の錦絵   出典:増上寺

 上の絵地図の中央上にある丘にあるのが台徳院霊廟奥院宝塔であり、下は焼失前の台徳院霊廟奥院・宝塔の外観です。八角形をした奥院となっています。


台徳院霊廟奥院宝塔覆屋外観
出典:http://markystar.wordpress.com/2013/05/29/daitokuin/


台徳院霊廟奥院宝塔覆屋外観
出典:http://markystar.wordpress.com/2013/05/29/daitokuin/

 下は、焼失後の台徳院奥院・宝塔の基礎部分です。やはり八角形をしていることが分かります。


台徳院霊廟の中心部、台徳院霊廟奥院宝塔覆屋の空襲による残骸
出典:http://markystar.wordpress.com/2013/05/29/daitokuin/


◆戦後の台徳院霊廟・宝塔(墓)と丸山古墳の現地視察

 では、現在どうなっているかについてグーグルアースの立体航空写真で見てみると、下のようになります。高層ビルは、プリンス・パークタワー東京(ホテル)です。

 そのホテルの前にある小高い丘と林が、まさに第二次世界大戦前まで台徳院の奥院・宝塔、それに五重塔などがあった場所なのです。なお、写真の右下にある門(屋根)が惣門です。また左下には東照宮の屋根が見えます。

 こうしてみると、増上寺に御南霊屋一帯は北霊屋同様、プリンスホテルの土地となっていることが分かります。


グーグルアースの立体航空写真で見た現在の御南霊屋一帯

 以下は上が北、下が南のグーグルマップの衛星写真です。写真中、芝公園と書かれているあたり一帯が台徳院の奥院・宝塔があった場所です。芝東照宮は本来あった位置よりかなり北西側に移築されています。


グーグルマップで見みた現在の御南霊屋一帯

 2015年9月15日、増上寺の安国殿で開催された黒本尊祈願会、また経蔵公開参加の後、戦前まで台徳院の霊廟や宝塔(墓)、また正室崇源院(お江の方)の霊廟などがあった御南霊屋に向かいました。

 
下はグーグルストリートビューで見た戦前まで台徳院の霊廟や宝塔(墓)があった御南霊屋の丘です。高さは最高で20m程度でしょうか?


戦前まで台徳院の霊廟や宝塔(墓)があった御南霊屋の丘
出典:グーグルストリートビュー


戦前まで台徳院の霊廟や宝塔(墓)があった御南霊屋の丘
出典:グーグルストリートビュー


戦前まで台徳院の霊廟や宝塔(墓)があった御南霊屋の丘
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 実は現地に行ったことで分かったのですが、台徳院の霊廟や宝塔(墓)があった御南霊屋の小高い丘には、丸山古墳がありました。

 下は小高い丘への傾斜です。右(下)は芝公園です。


小高い丘への傾斜
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 また小高い丘に近づくと、下の写真のように、石垣が幾重にも出来ており、頂上に登る階段もありました。


石垣が幾重にも出来ており、頂上に登る階段も
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15

 丸山古墳に到着する前に下のような石塔がありました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


◆丸山古墳

 下は芝丸山古墳についての東京都教育委員会の解説です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 上記の案内板では、全長は106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mの前方後円墳であるとあります。また標高は約16mの台地端に位置しとあり、立派な古墳だったようです。

 一方、下はWikipediaにある丸山古墳の説明です。墳丘長は最大125メートルもあるり、都内では最大級の規模です。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられています。

◆丸山古墳
 
 東京都港区芝公園にある前方後円墳。東京都指定史跡に指定されています。

 築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模です。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられています。

 1892年(明治25年)、3年間の欧州留学を終えた自然人類学者坪井正五郎は日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じました。
 
 翌年の1893年(明治26年)に坪井が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見しました。しかし遺構らしいものは確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できませんでした。1979年(昭和54年)3月31日に東京都指定史跡に指定されています。

出典:Wikipedia

 ところで、この芝丸山古墳と台徳院の霊廟や宝塔(墓)との関連は明らかになっていませんが、上記2つの解説では、江戸時代以降、原型はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削りとられているとあり、また江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられています、とあります。

 台徳院の霊廟や宝塔(墓)の造営、構築は、江戸時代前期であることははっきりしていることから、私達の推察では、台徳院の霊廟や宝塔(墓)の造営、構築をこの小高い丘に行った際、丸山古墳をかなりの程度、切り土などをすることで原型を損ねた可能性があります。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15


丸山古墳がある場所
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15


◆円山随身稲荷大明神

 なお、古墳近くに円山随身稲荷大明神という神社がありました。

 円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、、史蹟として指定されている丸山古墳の上にあります。
 
 随身稲荷の由来は 増上寺がこの地に移建当時、桑名よりお迎えしたご本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります、と書かれています。


円山随身稲荷大明神び解説板  大本山 増上寺
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


円山随身稲荷大明神
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


円山随身稲荷大明神の鳥居
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


円山随身稲荷大明神の鳥居
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15


円山随身稲荷大明神のキツネ
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15


円山随身稲荷大明神
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15

 ただ、丸山古墳がある下の場所(標高16m)は小高い丘の頂上ではなく、かなり下がってきた場所にあります。ここからさらに丘の最標高部までは、最低でも10m程度あるので、小高い丘の標高は全体として25m程度はあったものと推察できます。次回の現地調査では、標高が測れるGPSを持参したいと考えます。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


◆丘の頂上にあった2つの碑

 以下は西の最高標高点にあったトラの彫像です。 これは大野伴睦の句碑のようですす。

  鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺   万木
  碑文揮毫 鳩山 薫
  昭和39年5月29日、大野伴睦は73歳で没。
 http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/sibakouen.html


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 また頂上には、以下のような伊能忠敬の石碑がありました。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 伊能忠敬の石碑は全国各地にあります。

 たまたま私の友人で千葉県佐原市に生まれ住んでいた友人(すでに故人、豊福さん)が伊能忠敬の出身が佐原であることを聞かされましたが、友人は伊能忠敬が全国を行脚し,日本地図を作成したことに鑑み、75歳超の高齢であったにもかかわらず世界40カ国近くの国々に、アマチュア無線の機器とアンテナを持ち込み、運用し世界中の無線家と交信するなどの快挙を達成されています。

伊能 忠敬(いのう ただたか)

 延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家です。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにしました。1883年(明治16年)、贈正四位。

出典:Wikipedia

 近くには以下の碑文がありました。

碑文

忠敬先生は1745年(延享2年)上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。

その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである東京地學協會はその功績を顯彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失われるに至った仍って今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である

1965年5月
社団法人 東京地學協會
會長 細川護立


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15


つづく