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2011年9月17日〜19日にかけ4月、6月の福島県、8月の岩手県調査についで宮城県と福島県北部の沿岸部の被災地現地調査及び放射線測定調査を行った。 今まで現地調査ででかけた福島県、岩手県同様、宮城県、どこも涙なくして話しが聞けず、臨海部ではどこも見渡す限り、まさにひとっこひとりいないゴーストタウンとなっている現実にしばし呆然とさせられた。 今回は、池田こみちの知人が福島県最北部の新地町の仮設住宅におられ、下の仮設店舗の中でご夫婦に池田がインタビューを行った。 ●インタビューの関連情報 ・日時:2011.9.19 午後12:40〜 ・場所:福島県相馬郡新地町 町役場前の仮設店舗にて ・被インタビュー者 H氏、Kさん(ご夫妻) ・インタビューアー 池田こみち、青山貞一、鷹取敦 ●新地町情報 ・平成23年(2011年):3月1日における新地町の人口と世帯数 ・人 口:8.387名 ・世帯数:2,654 ※ 新地町のHPより 福島県相馬郡新地町は、福島県の一番北、宮城県の山元町と接するところにあり、歴史上、宮城県と福島県の間を行政的に行ったり来たりしてきたという。 ・新地町の地理的位置
●東日本大震災・津波 被災前後の新地町の状況 (新地町漁港周辺地域) 被災前の新地町(2010年9月) 出典:Google Earth 被災簿の新地町(2011年4月) 出典:Google Earth ●新地町の東日本大震災関連情報 ・2011年9月16日、8時現在における新地町の被害状況 ※出典:福島県HPのデータより ・死者数 :109 ・行方不明者数: 1 ・避難者数 : 0 (6/20に仮設への入居完了、全避難所閉鎖) ・住宅、建物被害(全壊数+半壊数):548 ●被災者インタビュー(1) Kさん 3.11の地震のときは、私たちは自宅に居ました。ものすごい地震で美容院の店舗の大きな一枚ガラスにひびが入ったり、隣の家の瓦が落ちてきたり、これまでにない揺れでした。でも私は津波については経験もなく、この地域で津波の被害についての話もあまり聞いていなかったので、二階にあがってしばらく待てば、せいぜい床上浸水くらいでなんとかなるのか、と思っていました。 自宅(母屋)と美容室(店舗)は海から200mも離れていないところに位置しており、土台だけ残して跡形もなく流されてしまいました。 主人が逃げろと言わなければ、二階にそのままじっとしていたと思うので今頃はきっと居なかったと思います。 夫妻のご自宅に向かう途中の新地町沿岸部(海から200m) 動画撮影:青山貞一 2011年9月19日 H氏 私は、消防署に勤めていて昨年リタイヤしたばかりでしたので、自宅に居ましたが、あまりにも地震が大きいので津波がくると思い、すぐに車に乗って窓を開け、地区の人々に「地震が来るから逃げろ」と叫びながら家の前の県道を走りました。 家内にはすぐに逃げるように言い、自分はとにかく地区の人たちを逃がさなければと必死に走っていました。そうしたら、後ろからパトカーが来て、「そこの車、危ないから直ぐに逃げなさい」とマイクで声をかけられました。 私の母は80歳を過ぎていますが、日頃からゲートボールをやっていてとても元気な人なので、そのときも電動自転車にのって、女房とは別の高台に逃げました。 高台から見ていたら、家の前の海近くにある黄色い色をした鉄筋の民宿があるんですが、その上を、まるで壁のように津波が押し寄せてくるのが見えました。ほんとうに恐ろしい光景でした。おそらく津波の高さは15m以上あったのではと思います。まるで映画の一シーンのようでした。 ○避難所生活: Kさん 私は、最初、車に乗って、地区の避難所になっている高台の公会堂に逃げましたが、そこも危ないというので、集まったみんなで、車に乗り合わせ、少し離れた別の高台に逃げました。普段は通らない道で狭くてどこに向かう道なのかもわからず、とても怖かったのですが、公会堂も危ないというので、火事場の馬鹿力じゃないですが、必死でみんなで逃げました。 そこは建物もなく、空き地だったので寒くて寒くてほんとうに大変でした。その後、母も合流して、学校の体育館に避難し、さらに移動して別の小学校の体育館に行ったときは総勢530人もの避難者になりました。 体育館で3ヶ月間避難生活を送りましたが、女性たちはそこで炊事を行い、お風呂にも入れず厳しい毎日でした。支援物資もなかなか届かず寒いのに冷たいおにぎりや飲み物だけでは身体も温まらず、お年寄りには厳しい生活でした。トイレも狭くて和式で掴まるところもなく高齢者や障害者には使いにくくて大変でした。 ○避難と救出活動の様子: H氏 私は消防の職員だったので日頃から、地区内の路地や避難路について熟知していたので、みんなを早めに誘導することができましたが、普通の人たちは、津波の経験もなく、逃げ遅れた人も多かったのです。 消防署の職員も若い人たちは経験もなく大変だったと思います。 津波が収まった頃はもう暗くなっていましたが、自分の地区に戻って生存者の捜索を行っていました。地区の中では高台の住宅では、おばあさんが2歳の子どもをおんぶして、津波にのまれ、家ごと裏の崖に押しつぶされてなくなっているのが発見され、今思い出しても気の毒でたまりません。 そのとき、真っ暗ななかから、「助けて」とかすかに呼ぶ声が聞こえたのですが、瓦礫だらけでどうしても探し出すことができず、声の近くで「必ず明日の朝助けに来るから頑張って待ってて」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで夜中12時頃に撤収したのです。 そして、翌朝7時前に行って数名で捜索したところ、二階部分が押し流されてつぶれた屋根の下の壁に60センチくらいの穴を開けてみたら、タンスに足を挟まれて動けなくなっていたおばあさんが見つかりました。 雪がちらつくほどの寒さでしたが、家の中の狭い空間に入り込んでいたせいか、なんとか救出することができ、ほんとにうれしかったです。わずかな違いが生死を分けるということを実感し運命を感じずにはいられません。 ○漁港と漁師さん この地区にも漁港があり、海辺近くには漁師さんたちが多く住んでいました。地震当日、漁師の間では昔からの言い伝えで「地震があったら津波がくるから船を沖に出せ」と言われていたとのことで、多くの漁師が一斉に船を沖に出し、結果として75%の漁船が助かりました。 この辺りではもっとも漁船が多く助かった漁港と言われています。ところが、自宅に残された奥さんたちやお年寄り、子どもたちは逃げきれなくて亡くなった方も多く、「なんのために船を守ったのか」、と嘆いている漁師さんが多いと聞いています。 せっかく船を守っても、福島第一原発のせいで魚を捕っても全く売れず困り果てています。ほんとうに気の毒です。この町の漁港は、水産物の加工場は少なく、活魚で商売をしていたので大きな打撃です。 後で漁師さんに聞いたのですが、沖に船をだすときに、最初の波はそれほど大きくなかったとのことでした。次の波は少し大きくて津波らしい波だったそうですが、第三波の波がものすごく大きくて、乗り越えられるかどうか、必死の思いで波に向かっていったとのことでした。 結果として、船を出した漁師さんで亡くなられたのはお一人だけだったとのことです。(漁港には必死で守った船がずらっと係留されています。) ○新地駅周辺 常磐線の新地駅は海からやはり200mあるかないかのところにありました。報道でもご承知のように、地震直後、駅に入ってきた常磐線4両連結の列車は、すぐに停車し、乗り合わせた警察官や運転手さん、車掌さんの連携によって乗客を全員高台に避難させ、けが人一人出ませんでした。 運転手さんと車掌さんは最後まで残って避難させて、最終的には逃げられなかったのですが、翌日、なんとか生還できました。津波によって4両の車両はばらばらに放り出されて周辺の田んぼなどに散らばっている状態でした。でも、乗客乗員全員が助かってほんとうによかったです。 参考動画 新地駅周辺 津波直後の様子 http://www.youtube.com/watch?v=viMoKHylCtI&feature=youtu.be 私たちは駅の近くに畑を持っていたのですが、後から行ってみたら、畑に線路が流れてきていました。駅周辺には数件の家と駐車場などがありましたが、すっかり流されてしまい、今では、線路上が道路となっています。 一部の線路は流されたり、曲がりくねっていて、夏草が生い茂り、とても鉄道があったとは思えない状況です。駅周辺の畑や田んぼは水が引かないで今でも湿地か沼のような状態になっています。 海沿いには浄水場があり、被災しましたが、今はもう再稼働しています。 H氏 常磐線は現在、久ノ浜駅(いわき市)から亘理駅(宮城県)が開通していません。 原発のこともありますが、その間の被害はすさまじく、復旧はかなり難しいと思います。 復旧するにしても、路線を内陸側に移動せざるを得ないと思うのですが、それには最低でも10年はかかると思われます。それでは、私たちの足がなく大変困ります。 なんとか高台に移転する前に、現在の路線で新地から亘理までの開通してもうことは出来ないのかと思います。私たちは、いわきに出ることもできないので、どうしても仙台への足が確保されないと困るのです。 ○仮設店舗での再出発: Kさん 小学校の体育館での避難所生活が3ヶ月、その後、6月に仮設住宅に移って3ヶ月が過ぎ、6ヶ月間なにも仕事もできないで頑張ってきましたが、お陰様で、国が設置してくれた仮設店舗に美容室を開設できることになりました。 福島県新地町の仮設店舗の前にて 撮影:青山貞一 2011年9月19日 福島県新地町の仮設店舗にて 撮影:鷹取敦 2011年9月19日 美容室の椅子やその他の機材類はすべて流されてしまったので、新たに購入するしかありませんでしたが、再出発ができるのは大変有り難くうれしいことです。張り合いもあります。 お客様も大勢亡くなっていますので、ほんとうに言葉もありません。 つづく |