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●被災者インタビュー(2) ○仮設店舗(Kさん) 仮設店舗ができたのは、福島県内では3番目で早いほうです。うちと、隣が衣料品店、電気屋さん、一番端が歯医者さんです。 ○避難(H氏) 当日は私も家内もうちにたまたまいたんです。 今まで経験したことのない地震だったので絶対に津波がくると思って、うちの地区を車で1km半くらい地区の人たちに避難するように声かけて走ってました。 そしたら、パトカーに後ろから、避難するように言われたので、Uターンして自宅に戻ったら、母と家内は高台に避難していました。 いっしょに逃げろって言ったんですが、逃げた場所がばらばらだったんです。最終的には、ばあさんが逃げたところが浸水してきたもので、最終的には一緒になったんです。 その夜、私を消防署まで乗せていってくれた隣の息子さんが、自分の家族を避難所に残しているので地区に帰るというのです。危ないから止めろと言ったのですが、波打ち際まで見に行ったんです。 そうしたら、ちょうどうちの家内たちの避難している途中に出くわして、今来た道を一緒に戻るということでみんな避難することができました。 一時避難所の体育館では二日過ごし、その後小学校の体育館で3ヶ月538人が避難していました。 (Kさん) 私は古川の内陸の出身で、津波の怖さを経験していないんです。津波に対する認識がなくて2階に行けば大丈夫というくらいの認識だったんです。お客さんも友達もなくなっているし、自分はたまたま助かったけど明暗を分けたのはなんだったのか、と思います。地震から津波まで30分くらい時間があったんですが、地震の後一旦家に荷物を取りに戻った方々が大勢亡くなっています。 (H氏) 港に船の重油を入れる4000リットルのタンクがあるんですが、それが折れてまるでロケットの弾丸のように波に運ばれてきて、一気にものすごいスピードで1.5kmくらい流されたんです。それがまた引き波に戻されて今も残骸があるのですが、あれにはほんとうにびっくりしました。 ○防災無線(H氏) うちの地区では、地区の班長さん同志で連絡取るためメガホンと携帯用の無線機を用意していたんです。電話は通じないので、町役場と消防署に無線機をもっていけばこちらとの連絡が出来ると思って無線機を持って行ったんです。 その説明をしてたら、誰かが「津波だ!」と叫んで、消防署の3Fに上がってみたら、黄色い建物のちょうど上に津波が来ているところでした。壁のように押し寄せる波はまるでSF映画でも見ているようでした。 30分位したら、無線機で、ここじゃ危ないので別の場所に避難した方が良いという無線連絡が入ったんです。その別のところ、というのがうちの家内たちが避難した緑地広場だったんです。私は、そこよりもうちの家内たちが避難したところの方が低いと思ってたんですが、逆に高かったんですね。それであー助かったんだと思いました。 隣の山元町は役場にある防災無線の発信局がこわれてしまって機能しなかったということです。被害が大きくなったのではないかと思います。うちの新地町は防災無線が機能しました。 ○救助活動(H氏) 消防署も人が出払っていないので、退職したんですけど一晩泊まってお手伝いしました。私は小さいときから大戸浜の生まれで、じもとの小さい道もよく知っているので、救助活動にも参加したんです。若い職員を3-4人つれて夜中に救助に行きました。 おばあさんが二歳の孫さんを背負って亡くなっている姿というのは、ほんとうにつらかったんです。でも救助活動の途中でも余震があって津波警報が出るので引き上げなければならなかったのです。声が聞こえても壁をこじ開けるための道具をもっていなかったので、壁をこじ開けて助けることもできず、12時すぎなんで引き上げなければならなかったのです。 ○常磐線 新地駅 乗客は40数名でした。運転手さんと車掌さんは跨線橋にのぼって「助けて欲しい」と叫んでたんですが、消防隊としては真っ暗でヘリはとばせない、瓦礫で道は進めない、また、津波警報が出ているので、なかなか現場に行かれなかったんです。それで、「明日の朝絶対助けに来るから頑張ってください」と言い残して撤収せざるええなかったんです。でも次の日の朝七時に自力で脱出してきて、ほんとによかったです。電車はラッシュ時だけ8両なんです。 あのときはお客さんの中に警察の人がいて誘導したようです。おばあちゃんがどうしても動けなくなって逃げるのが大変だったんですが、ちょうど軽トラックが通りかかって危機一髪助かったそうです。 役場まで床上浸水したんです。 地震そのものはそんなに破壊はなかったので、乗客が逃げる間は大丈夫だったんです。その後、30分くらいで津波で家屋が壊され瓦礫が押し寄せてきたんです。 駅の周りには3軒くらいでまわりは田んぼだったんです。そこに線路がありました。新地の駅は海から500mはないんです。堤防は2〜3mのものがあったようですが、それがバタバタ倒されてSF映画を見ているようでした。 ○津波に対する意識 この辺では明治三陸地震についてはほとんど聞いていないです。明治の津波があったというのは最近知りました。先祖からの申し送りというのはほとんどなかったんです。大戸浜地区で亡くなった人はちょうど坂の中間に住んでいる人が多くなくなったんです。チリ地震のときには私も高台に避難したんですが、その時に水がどんどんどんどん引いていくのが分かりました。 その時に漁師さんたちは、桶をもって浜にピチピチ跳ねている魚を捕りに行ってから避難してました。その時に津波は24時間で到達したんですが、それほどの被害がなかったんです。遠いからでしょうね。 それを経験した人たちは、あのチリ地震ですら津波がこなかったというので中間くらいの高台に住んでいた人が、安心していてほとんどやられてしまいました。 ○復興に向けて 今、町でも復興に向けた取り組みが進んでいて説明会もあったんですが、避難所にいるときにアンケートしたら、うちの地区は150世帯450名の地区でしたが65%が大戸浜の地区の人たちち一緒に住みたいという意向だったのです。逃げた山の側を造成して住みたいという意向です。 ただ、漁業関係者は海のそばに住みたいという気持ちはあります。頭では分かるんですが、生活基盤が海なんでどうしてもそばに住みたいという気持ちが強いようです。 ○常磐線の復興 高台に移設するには用地買収して補償してとなれば、最低でも十年以上かかるでしょう。それでは年寄りは待てません。仙台空港も復旧しているし、私たちの生活圏は仙台圏になっているんです。ここから亘理まで代行バス(JRの)で行かなければならず大変なんです。 |