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秩父再訪を敢行して
@秩父事件と
石間交流学習館訪問

青山貞一 
20 September 2010
独立系メディア「今日のコラム」
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◆秩父へのこだわり

 2010年9月19日、環境総合研究所の青山貞一、池田こみち、鷹取敦は日帰りで秩父にでかけた。 青山、池田は、昨年12月、秩父に出かけ、いわゆる「秩父事件」について資料を収集し下の論考を書いた。

●特集:温故知新・平成の今と酷似する「秩父事件」の現場を歩く!
青山貞一:温故知新・秩父事件〜秩父というまち:秩父神社
青山貞一:温故知新・秩父事件〜秩父というまち:武甲山
池田こみち:温故知新・秩父事件〜地場産業のちちぶ銘仙
青山貞一:温故知新・秩父事件〜事件の概要と背景・原因
青山貞一:温故知新・秩父事件〜事件の現場を歩く@ 
青山貞一:温故知新・秩父事件〜事件の現場を歩くA
青山貞一:温故知新・秩父事件〜事件の現場を歩くB 
青山貞一:温故知新・秩父事件〜事件の現場を歩くC龍勢会館資料
青山貞一:温故知新・秩父事件〜映画「草の乱」について
青山貞一:温故知新・秩父事件〜当時の生糸の生産・流通
青山貞一:温故知新・秩父事件〜自由民権運動と農民蜂起

 秩父は距離だけで見れば東京から近いのだが、池田さん、鷹取さんの感想にもあるように、秩父は、武州(東京都)はもとより、甲州(山梨県)、上州(群馬県)、信州(長野県)に近接し、谷が切り立ち、山深い。安易に人を寄せ付けない敬虔さがある。言い方を変えれば自然豊かなそして地形が複雑な景勝地である。

 実際、東京から行くとなると簡単ではない。今は長野新幹線で軽井沢に1時間、長野でも1時間半で行けるが、奥秩父には東京の練馬からでも3時間以上かかる。今回は連休中ということもあり、4時間近くかかっている。

 当日はひさびさの連休の最中でもあり、東京から奥秩父に向かうのに、関越自動車道あるいは中央自動車道、いずれの高速道路も渋滞が予想されたこともあり、東京練馬から一般道を使い秩父及び奥秩父にでかけた。最終目的地の奥秩父には片道で約4時間の長い道のりとなった。

◆今回の秩父現地調査の全体ルート

 今回日帰りで東京から敢行した秩父と奥秩父へのルートは、以下の通りである。

 東京練馬・池田宅→関越自動車道(渋滞を避けるため)→所沢IC前で一般道へ→一般国道463号線→一般国道299号線→秩父市到着→ちちぶ銘仙会館→県道44号線→県道37号線→能勢会館(昼食)椋神社視察→国道363号線→石間交流会館視察→県道363号線→県道37号線→国道140号線→豆焼橋→雁坂橋→林道(日テレ社員遭難現場周辺視察)→豆焼橋→国道140号線→一般国道299号線→圏央道→関越自動車道→東京練馬へ

 午前9時に東京練馬の池田宅を出発し、練馬駅に帰ってきたのは午後7時30分である。

◆秩父事件の貴重な資料・文物が残る石間交流学習館

 そんな秩父の山奥で明治時代に起きた事件(=秩父事件)は、明治政府の経済・財政政策、地方政策に辺境の地から農民が主体的、自立的に反旗を翻した日本近代史上きわめて希有かつ重要な事件であった。しかも反旗を翻したのは、貧しい農民だけではない、地域の富裕者や社会的地位のあるひとびとによる本来の意味での「ノブレス・オブリージュ」でもあったと思う。

ノブレス・オブリージュ
 ノブレス・オブリージュあるいはノーブレス・オブリージュ (フランス語:noblesse oblige) は「貴族の義務」あるいは「高貴なる義務」を意味する。英語では「ノーブル・オブリゲーション」(noble obligation)と言い、財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。

 昨年12月の秩父訪問で近くを通りながら時間の関係で訪問できなかった場所があった。それは秩父事件のひとつの発端となった上吉田の石間にある「石間交流学習館」であった。この石間は秩父事件に参加した農民のうち、もっとも山深く辺鄙な山村がある村であった。

 昨年12月は訪問した際、私たちは上吉田の石間よりさらに辺鄙な「半納の横道」といって秩父事件で農民が蜂起した場所まで行ったが、「半納の横道」を探すのに多くの時間がかかってしまい、結局、途中にあった「石間交流学習館」に行きそびれてしまったのである。


「半納の横道」
出典:秩父市教育委員会配布パンフレットより 2009.12


「半納の横道」にある火の見櫓にて
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Cool Pix S8 2009.12


堂の尾根に残存する常夜灯常夜灯を背景にした池田こみち氏
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 2009.12

 下の地図は前回「半農の横道」を視察した際の道のりである。今回行った「石間交流学習館」は、地図中にある「石間」の近くにある。


龍勢会館から「半納の横道」に行く道筋

 この「石間交流学習館」には、他の資料館にはない秩父事件に関連した資料、文物があると聞いていたので、前回寄れなかったのは、かえすがえず残念であった。



 今回の秩父行きのひとつの大きな目的な、「石間交流学習館」に行くことであった。その「石間交流学習館」は、廃校となった小学校を利用し秩父事件に関連した資料、文物を展示していた。


石間交流学習館にて
撮影:池田こみち 2010.9.19


石間交流学習館の展示室にて
撮影:鷹取敦 2010.9.19

 下の写真は池田さんが撮影した一枚。

 養蚕の中心地、石間集落の貴重な写真。急傾斜地の山の斜面の養蚕農家が張り付いていることがわかる。交流館からもう少し「半納」の方に上がった沢戸(さわど)という集落。急な斜面を切り開いて畑を作っている風景が珍しいとのことで、絵を描いたり写真を撮りに訪れる人がいるとのことだ。今でも30戸ほどが暮らしているとのことだ。


石間集落のさらに上の沢戸(さわど)の貴重な写真
撮影:池田こみち

 石間交流学習館に行く途中、石間村出身の秩父事件の幹部、加藤織平の墓がある。秩父事件の困民党員がすべて暴徒と呼ばれた時代、「志士」の文字を彫り込んだ加藤の家族の気持ちが示されている。しかし、当時、明治政府の教育を受けた子供が加藤の墓に石を投げつけたという。


加藤織平(石間村)の墓
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 なお、石間交流学習館及び奥秩父遭難現場の現地調査報告は別途行う予定であるのでそちらもお読みいただきたい。

つづく