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はじめに ひょんなことから12月の上旬、埼玉の秩父に出かけた。秩父に出かけたのは、以前から気になっていた秩父事件の現場を一度、歩いてみたかったからだ。 秩父事件では、結果として時の明治政府(山県有朋が総理)によって幹部は暴徒として多くの刑死者を出した。しかし、彼らはけっして暴徒などではない。農民など生活者の立場に立った立派な「志士」である。 秩父に行く少し前、私は山口県萩市に講演ででかけた。萩は言うまでもなく、長州藩の本拠地、明治政府では伊藤博文、山県有朋など多数の総理をだした土地柄だ。 その山県有朋は長州藩閥で高い評価を得ていたが、この秩父の地では悪政に立ち向かう農民蜂起を弾圧する責任者でもあった。 もっぱら、その萩にも吉田松陰の門下、前原一誠らが明治政府に対し起こした「萩の乱」がある。当時は、福島県の会津若松にも、北海道の函館にも、明治政府に叛旗を翻した乱は多数あった。西郷隆盛の西南戦争もそうだ。 しかし、薩摩、萩、会津若松、函館と秩父が大きく異なるのは、前者の多くは江戸幕末の武士らが起こした乱であるのに対し、秩父事件は農民ら明治政府に対し起こした蜂起(Uprising)である。 ただ共通しているのは、混沌とする明治維新の中で社会経済弱者のために身を投じた人々であることであり、いずれも暴徒、反乱者、国賊として捉えられ刑死となったり、自刃させられたことだ。 本論考を執筆した目的は、あくまでも第三者として秩父事件が起きた場所を歩き、地域で見たこと、ひとびとと話したこと、資料収集したことをもとに、秩父事件の足跡を振り返り、今後の日本の政治や経済のあり方に何らかの提案をすることにある。 というのも、120年以上前に起きたこの秩父事件と今は、さまざまな意味で時代状況、とりわけ政治、経済の状況が似ているからである。 養蚕・生糸生産に関連した産業経済のグローバル化と地域経済のモノカルチャー化、経済を覆うデフレーションの進行、零細事業者、営農者への資金貸渋り、貸し剥がし、それらによる極言まで達する生活苦などなど。 一方、秩父と同じ中山間地にあり、養蚕・生糸生産に特化していた信州や上州でなく、武州の秩父で農民蜂起が起きたのかなど、疑問は尽きない。 ●今の秩父市 秩父市は1000m級の山々に囲まれた盆地の中にある。現在の人口は、約67,900人である。 秩父市の市域のほとんどが秩父多摩甲斐国立公園や、武甲・西秩父といった埼玉県立の自然公園に指定されている。荒川が南西から北東に流れ河岸段丘を形成する。市の南東にそびえる武甲山では石灰石を産出し、露天掘りが行われている。 下はグーグルマップの地形図でみた秩父市である。秩父市は周りを1000m級の山々に囲まれた盆地である。その秩父市内からよく見える武甲山は、市の南にある。 グーグルマップの地形図でも秩父市 外から行った者には、自然と共生した大変ゆったり、居心地が良さそうなまちだが、秩父市のまちをよく見ると、元々の地場産業で一世を風靡した「ちちぶ銘仙」はもとより、あらゆる地場産業が衰退し、いわゆるシャッター通りが多い。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 しかも、例外なく巨大な駐車場付きのディスカウント店が町中に何件もあり、おそらく市民の多くは、そこでまとめ買いするから、地場産業だけでなく、消費財を扱うあらゆる商店がへこたれているのだろう。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 そんな中、秩父市でひときわ異彩を放っているのが、有名な秩父夜まつりの氏神、秩父神社と、秩父セメントとして全国的に秩父の名を有名にしたセメントの原材料である石灰岩を露天掘りで採掘され続け、山の形まで変えられた名峰、武甲山である。 ●秩父神社 まず秩父神社だが、秩父市のど真ん中にこんもりとした森がある。その中に秩父神社がある。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 秩父神社は秩父地方の総社である。 旧社格は国幣小社。毎年12月上旬に行われる秩父夜祭が有名で多くの観光客が訪れる。この神社は武州六大明神の一つとされている。 また学業成就の神社として受験生が訪れる神社として知られている。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 秩父神社の社殿と参道の南側延長線上に武甲山がある。 社記および「風土記稿」によれば、天慶年間、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀し、秩父三十四箇所の旧拾伍番・母巣山蔵福寺(現在は廃寺)が別当寺的な存在で当社を管理した。以降、神仏分離まで「妙見宮」として栄え、延喜式に記載の本来の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が有名となった。 江戸時代の絵図を見ると、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。 なお、1884年(明治17年)の農民蜂起として全国的に有名な秩父事件では、困民党軍が境内に集結したという。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 境内には武甲山からの伏流水がある。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 昭和8年に秩父宮様・妃殿下が秩父神社で銀杏の苗木を植栽された。このうち、妃殿下がお手植えになられた銀杏は、女性のふくよかな乳房のような形に育ったことから乳銀杏(ちちいちょう)と呼ばれて親しまれている。 また、この銀杏を触ると、女性の病気が治るといわれている。さらに、秩父神社は、秩父宮様にも縁が深く、平成殿2階に資料館があり。拝観は無料、希望に応じて受付をしているとのこと。 秩父神社の乳銀杏 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 乳銀杏についての説明 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●秩父夜祭 秩父で忘れてならないのは、秩父夜祭であろう。 この祭りは、12月1日から6日に開催される秩父神社の例祭のことだ。 2日と3日に提灯で飾り付けられた笠鉾・屋台が市内を練り歩き、例大祭の3日の午後7時頃に、秩父神社から1kmほど離れた御旅所に向けて6台の笠鉾・屋台が出発し、クライマックスを迎える。 出典:Wikipedia 笠鉾・屋台は、秩父神社の隣にある「まつり会館」の中に祭以外は飾られており、有料で見ることが出来る。 秩父夜祭の笠鉾・屋台は、1962年(昭和37年)に重要有形民俗文化財に指定され、3日の例大祭の付祭に公開される笠鉾や屋台の曳行と、曳行のための秩父屋台囃子、屋台上の秩父歌舞伎や曳踊り等の一式が、1979年(昭和54年)に「秩父祭の屋台行事と神楽」として重要無形民俗文化財に指定された。 この秩父夜祭は、何と京都の祇園祭、飛彈の高山祭と並んで日本三大美祭及び日本三大曳山祭のひとつに数えられるのだから大した祭りである。 |