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●その後の井上伝蔵 1884年(明治17年)11月に起きた秩父事件では会計長を努めた。秩父事件敗北後、逃亡。欠席裁判で死刑の判決を受けたが、北海道に潜行していた。 井上伝蔵は1918年(大正7年)、野付牛町(現北見市)で、秩父から呼びよせた先妻や、変名(伊藤房次郎)のまま結婚した妻と子供に見守られながら波乱に富んだ生涯を閉じた。享年65。なお晩年伝蔵は、子供らに北海道へくる前の事を語ったという。 井上伝蔵の生家は1947年(昭和22年)に取り壊され、いまは空き地となりわずかに「井上伝蔵の家」(吉田町教育委員会)という立看板があるだけである。また墓地も道路を挟んだ畑のなかにある。 秩父時代の妻はコマ(「古ま」とも)。一子フデの子で孫にあたる小林もと(1920年生れ)が、地元秩父市に住んでいる。北海道時代の妻は高浜ミキ。その三女セツの子の佐藤知行(1927年生れ)と田中ゆう子(1925年生れ)が東京都足立区に住んでいる。 2003年6月23日には映画「草の乱」の上映を機会に孫3人が墓参を行っている。 伝蔵は俳句もたしなみ号は柳蛙と号した。「想いだすことみな悲し秋の暮」などが残されている。秩父時代の妻コマは浅草の芸者だった。東京都板橋区の養育院(養老院)で死去している。 事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された。
北海道に逃れた井上伝蔵の写真 下吉田の龍勢会館にて 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 これについては、映画「草の乱」のあらすじに概要がある。以下参照のこと。 1918年(大正7年)、北海道野付牛町。一人の老人が妻と長男を呼び寄せ、自らの秘密を告白する。老人の本当の名は井上伝蔵、“秩父事件”の首謀者の一人で逮捕を逃れ北海道に渡り、33年のあいだ身分を偽り生きてきたのだった――。1883年(明治16年)秋、秩父郡下吉田村。山間のこの一帯は蚕を育て生糸を売って暮らしていた。しかし、松方デフレや軍備拡張の増税、世界的不況が重なり、人々は借金に頼らざるを得ない状況に陥っていた。生糸商家“丸井”を営む井上伝蔵は、そんな人々の窮状に心を痛め、彼らの助けになりたいと行動に出るのだったが…。 なお本事件に関しては、従来は専ら自由民権思想及び松方デフレの強い影響下に発生したと考えられてきたが、近年はそれらに加えて、前号で詳述したように、他の養蚕地域との比較や、上述の国際的環境の影響、秩父地方特有の民俗学的状況等に関しても考慮した研究の必要性が高まっている。 ※ 秩父事件の年表●困民党軍の組織決起の当日に椋神社で発表された役割表と軍律 役割表(部分)
他に秩父郡各村小隊長・兵糧方・軍用金集方・弾薬方・銃砲隊長・小荷駄方・伝令使などの役割があった。 |
秩父事件関係略図
出典:椋神社境内の看板 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
映画「草の乱」より
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