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温故知新・秩父事件

地場産業のちち
ぶ銘仙

池田こみち
25、27 Dec. 2009
独立系メディア「今日のコラム」


 秩父(ちちぶ)といえば、札所巡りや12月上旬の夜祭が有名だが、忘れてはならない秩父事件のもととなった地場産業としての養蚕と絹織物がある。

 今でこそ一時の隆盛はすっかり見られないものの、地形的に回りを山に囲まれ農地の少ない盆地の秩父では、養蚕製糸工業、絹織物が唯一、地域の産業として人々の生活を支えてきたのである。


丘の上から撮影した現在の秩父
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 特に、幕末開港以後は、生糸価格の好況により一帯の山村には生糸景気が訪れていたという。

 当時は、農家が生産した生糸や絹織物が商家(仲買・問屋)などに集められ、横浜港から国内各地はもとより海外にも輸出されていた。

 ちちぶ銘仙の最盛期に下の写真にあるように、絹紡糸を使うことがちちぶ銘仙の質の低下に繋がったと言われている。

 秩父の農家では最後まで絹紡糸の使用に抵抗したと言われている。


往事の絹織物工場
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 折しも大政奉還後、明治政府は、版籍奉還(明治2年)、廃藩置県(明治4年)、学制頒布(明治5年)、徴兵制(明治6年)、地租改正(明治6年)と、次々と新しい政策を打ち出していくが、その中で農民の暮らしは次第に逼迫、農民一揆が頻発するようになった。

 そして、明治15年から17年にかけての深刻な経済不況はさらに農家を苦境に陥れ高利の借金に苦しみ土地を手放したり破産に追い込まれ、さらには自殺者も多発する事態へと追いつめられていったのである。

 その延長で秩父事件が起きた。

 生糸や織物の価格が半分から三分の一まで低下したとされている。秩父事件の背景には地域経済、地場産業が直面したこうした時代状況が深く関わっており、まさに平成の今、私たちが直面している状況と酷似している。

 グローバル化に伴いサブプライムローンのシステム崩壊など地球の裏で起きたことにより、モノカルチャー化した地盤産業が弱体化、学費等の高額な負担の一方で社会保障やセーフティネットの不足により人々は借金苦に陥りせっぱ詰まって政治や政府を変えようと自ら立ち上がるのである。

 秩父事件については青山氏の論考に譲るとして、ここでは秩父の絹織物について述べてみたい。この絹織物は「秩父銘仙(めいせん)」として名を馳せている。

 財団法人 民族衣裳文化普及協会、その設立目的は、わが国の優れた民族衣裳および、その染・織・文様・造形等に関する知識を普及して一般の理解を深め、併せて、民族衣裳の伝統技術の伝承および研究を奨励し、もってわが国文化の発展に寄与することとされており、つぎのように特徴づけられている。

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産 地:埼玉県秩父市
特 徴:銘仙織物の草分け的存在の織物。
    「染色堅牢、地質強靭」な実用的な絹織物。「鬼秩父」の異名もある。
    「絣製造装置」による解織である。
用 途:着尺地、丹前地、夜具地。
変 遷:秩父地方産の絹は、裏地として古くから広く用いられていた。
    明治時代に銘仙が織られると、その実用性が珍重されて全国に広
    がったが、昭和に入ってからは実用性本位の織物の需要が衰え、
    秩父銘仙も衰退した。
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ちちぶ銘仙館入り口
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 秩父市にある「ちちぶ銘仙館」は、秩父銘仙の産業と文化芸術としての伝統を今に伝える施設として今も重要な役割を果たしている。

 本館はアメリカ人の建築家ライト氏が考案したとされ、昭和五年建築されたモダンな建物であり、今でもその価値は変わっていない。


ちちぶ銘仙館入り口を背景にした筆者
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


アメリカ人の建築家ライト氏が考案したちちぶ銘仙館の建築(昭和五年)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


建築家ライト氏が考案したちちぶ銘仙館の建築(渡り廊下)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


かつての埼玉県繊維工業試験場秩父支場(移築したもの)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


かつての埼玉県繊維工業試験場秩父支場(移築したもの)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 「ちちぶ銘仙館」の内部には、染色や織物を体験するコーナーの他、昭和初期に発明された高度な織機類も残され、技術と伝統工芸が今に伝えられている。

 この種の施設は、たとえば私達がよく行く群馬県六合村の赤岩とか、長野県上田市などにもあるが、この「ちちぶ銘仙館」はかなり内容が拡充している。


映画「草の乱」ではこんな感じ。桑の葉の上にお蚕さんがいる


まゆの見本
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


映画「草の乱」ではこんな感じ


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


糸操室
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


映画「草の乱」ではこんな感じ


糸操室
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


大型紡織機(電源につなげばそのまま稼働しそう?)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


大型紡織機(電源につなげばそのまま稼働しそう?)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 私も茶道を嗜むため、普段から着物を愛用しているが、銘仙のきものは残念ながら持っていなかった。

 展示されていた作品を見ていて、母や祖母が着ていた姿を懐かしく思い出した。寝具や座布団にも多く使われていたとても鮮やかで斬新な柄行の織物である。


絹織物見本
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


絹織物見本
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


絹織物見本
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 日本各地にはそれぞれの地域独特の織物が今でも多く伝えられている。

 結城紬、大島紬、黄八丈、久米島紬、小千谷地染みなど私も愛用しているが、それぞれの地域の歴史をひもといてみれば、またその着物にちがった愛着といとおしさを感じずにはいられない。


絹織物見本
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


絹織物見本
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


絹織物見本
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 日本各地にはそれぞれの地域独特の織物が今でも多く伝えられている。結城紬、大島紬、黄八丈、久米島紬、小千谷地染みなど私も愛用しているが、それぞれの地域の歴史をひもといてみれば、またその着物にちがった愛着といとおしさを感じずにはいられない。


★銘仙館の由来を説明する看板

 今度、秩父を訪ねるときはしっとりと着物をきて町を歩いてみたいと思う。

秩父銘仙の歴史

「秩父銘仙」は、崇神天皇の時代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源と言われている。その後、「秩父銘仙」は伝統を受け継がれつつも高品質なものへと改良を重ね、明治中期から昭和初期にかけて最盛期を迎える。

 絹織物の「秩父銘仙」は、平織りで裏表がないのが特徴で、表が色あせても裏を使って仕立て直しができる利点がある。

 女性の間で手軽なおしゃれ着として明治後期から昭和初期にかけて全国的な人気を誇るようになった。特に独特のほぐし模様が人気を博したといわれている。また、当時は養蚕業などを含めると市民の約7割が織物関係の仕事にかかわっていたと言われている。

 今でも、昔ながらの技は受け継がれており、和服・ざぶとん・小物などが、秩父地方のお土産品として有名である。

銘仙館沿革

1930年(昭和5年)9月に秩父絹織物同業組合(現秩父織物商工組合)が
     秩父地方の繊維産業の向上と振興を図るため建築し、埼玉県秩父
     工業試験場を誘致した。

1983年(昭和58年)4月に埼玉県繊維工業試験場秩父支場に改組され、
     秩父地域繊維産業の発展のために大きな役割を果たしてきた。

1998年(平成10年)3月に県内工業試験場の再編・統合で廃止される。
     現在では、ちちぶ銘仙館として、秩父織物・銘仙等の歴史上貴重
     な史料の展示や伝統的な技術を伝承するための施設として、昭和
     初期の面影を残した形で改修された。

<Wikipediaより抜粋>


●秩父地方の絹織物の変遷

 以下の出典は、「圧政を転じて自由の世界を」である。


秩父養蚕業小史

出典:「圧政を転じて自由の世界を


 秩父地方の衣織物は、江戸時代に始まる。

 絹織は、金納年貢を納入するための重要な副業の一つで、自家養蚕・自家製糸・いざり機による自家絹織という形だった。

 農家の女性によって織られた絹は、秩父妙見の霜月の大祭を期して立つ、絹大市で絹商人に販売された。従って、郡内一般に、養蚕は江戸時代から盛んだった。

 しかし、19世紀半ばに鎖国が解かれてからは、状況が一変した。世界の工場であった欧米諸国は、製品である絹ではなく、絹の原料としての生糸を求めた。秩父の家内工業としての絹織物業は、一時的に衰退し、代わって、製糸業が脚光を浴びた。

 欧米諸国は、高品質の生糸を求めたから、人々の関心は、養蚕と製糸に集中した。

 養蚕の面では、武州児玉郡の木村九蔵が体系化した「温暖育」が、普及した。「温暖育」は、養蚕学校競進社を組織し、カイコ成育中の温度管理と湿度管理を徹底することによって、安定的に収穫を得る技術だった。

 秩父困民党創立者の一人、坂本宗作は、競進社主催の品評会で入賞した経歴を持っている。

 養蚕におけるもう一つのエポックは、高品質の糸を製する山繭飼育の流行である。

 山繭を飼育するには、生きたクヌギの葉を使わねばならず、虫の卵も秩父近傍では入手できない、貴重なものだった。

 やはり困民党創立者の高岸善吉は、20円の大金を投じて、信州安曇野から山繭の卵を購入した。

 また、困民党総理の田代栄助も、困民党に参加するまで、家の裏山で山繭の飼育に没頭していた。

 製糸業の隆盛の一方で、絹織物業は、輸出に適さない玉糸・くず糸を使った太織生産にシフトした。

 秩父銘仙の名によって復活した秩父の絹織物は、戦後に至るまで、布団地などを中心に、主要な地場産業であり続けた。


つづく