@埼玉県環境整備センター
A風布川と日本水とみかん
B龍勢会館と満願の湯
私達は寄居町にある埼玉県環境整備センターを一通り見学したとあと、寄居町から奧長瀞に向かった。
出典:マピオン
途中、鉢形城(はちがたじょう)跡という史跡があった。
出典:グーグルマップ
時間の関係で鉢形城跡には入らなかったが、この鉢形城は、何でも戦国時代の城跡とのことで、以下のように非常に歴史的に由緒ある史跡であった。
◆鉢形城跡
戦国時代の城跡であり、現在は国の史跡に指定され、鉢形城公園として整備されている。 園内には鉢形城歴史館(はちがたじょうれきしかん)が建てられ、往時の鉢形城の姿を紹介している。 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地している。
初めて鉢形城を築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。
出典:http://www.town.yorii.saitama.jp/modules/xfhachi/article.php?articleid=1
1546年(天文15年) 北条氏3代北条氏康が上杉朝定・上杉憲政の拠る川越城を攻略する河越夜戦が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。
1564年(永禄7年) 氏康四男北条氏邦が鉢形城へ入城した[3]。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となった。
鉢形城はその後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、1569年(永禄12年)には武田信玄による攻撃を受け、1574年(天正2年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は前田利家・上杉景勝・島田利正、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠
らの連合軍 (35000) に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城した。その後、徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。
関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年(昭和7年)、国の史跡に指定された。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。
出典:Wikipedia |
鉢形城跡の前を通過した後、私達は国道140号線の皆野・寄居バイパスを降りる。
バイパスには有料のトンネルがある。ふたつめのトンネルを出て次のトンネルに入る直前に、寄居風布インターチェンジがあった。ここで自動車専用道路を降りた。
寄居風布ICを出た後、道なりに行くと、埼玉県大里郡寄居町に「風布」(ふっぷ)という今まで聞いたこともない場所に出た。
ここには、風布川(ふっぷがわ)といって寄居町を流れ荒川に注ぐすばらしく綺麗な透明度が高い河川(一級河川)があった。下の写真はその風布川とその周辺の自然景観である。
寄居の風布川の自然景観
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-10-20
たまたま風布川近くに来ていた東松山市の元保育園の園長さんが、いろいろとこの周辺地域の自然、文化、そして歴史をお話をしてくれた。
寄居の風布川の自然景観
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-10-20
元園長さんによると、石田三成や豊臣秀吉に逆らった唯一の城主が埼玉県にいたとか。調べてみたら埼玉県行田市にあった忍城。忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市にあった城。江戸時代には忍藩の藩庁が置かれた。別名は忍の浮き城、亀城。埼玉県の旧跡に指定されている。関東七名城の一つ。忍城水攻めは日本三大水攻めの一つに数えられるという。
埼玉とか埼玉県というと、秩父事件くらいしか中央権力に逆らったことはないと思っていたが、埼玉にもにもなかなかの武将がいたもんである。
◆忍城と豪族成田家
・戦国時代・安土桃山時代
・1478年(文明10年)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。
翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。1553年(天文22年)に北条氏康は忍城を攻めるものの、攻略に失敗している。
忍城
出典:行田市公式Web
・1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏はこれに恭順した。
・1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲されるが、持ちこたえている。
・1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。甥の成田長親を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもった。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家らも加わった。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施すことになった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。
なお、この籠城戦のとき、成田氏長の娘である甲斐姫が活躍して包囲軍を退けたという伝承もある。
詳しくは以下を参照のこと。
※忍城
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元園長によれば、埼玉県嵐山町(らんざんまち)は、京都の嵐山と風景が似ているとしてつけた名前だそうですが、読み方をらんざんとしたとのこと。嵐山町には埼玉県でも有数の史跡が多数あるというので、今度行ってみたい。
その元園長さんは、この風布が日本における「みかん」づくりの北限にあるという話をしてくれた。
何でも、今からさかのぼること450年ほど前、北条氏が鉢形城(現在、寄居町鉢形地区に城跡があります)を築城した際、当地の温暖な地理的環境に着目し、小田原よりみかんを移植したことに始まったと言われている。
ちなみに、国土地理院の地図では風布川は釜伏川と表記されているが、この地域一帯は、埼玉県立長瀞玉淀自然公園の区域に指定されており、源流の湧水日本水(やまとみず) と併せ1985年(昭和60年)風布川・日本水として名水百選のひとつに選定された。さらに周囲の森林は水源の森百選日本水の森にも選定されている。
寄居町の上水道・灌漑の水源として利用されており、名水百選に選ばれた「風布川・日本水」の水源でもある。
◆日本水
釜伏山北面に、「百畳敷岩」から5,000(t/日)が湧出する、古来から涸れたことがなく水源には「日本水大神」が祀られている。
◆ 日本水の森
釜伏山北麓周辺に広がる森林で、日本水の森として水源の森百選に指定されている。 日本武尊が東征の折、戦勝を祈願して釜伏山中腹の「百畳敷岩」と呼ばれる大岩壁に剣を突き刺したところ、たちまち湧き出した戸の伝説がある。
途中7つの渓流を合わせおよそ6kmを北流し、夫婦滝から玉淀ダムに注ぐ、途中には日本の里
(やまとのさと)があり食事などが出来る。
所在地:埼玉県大里郡寄居町大字風布字大村蕪外(データは指定年1995年(平成7年)7月)
主な出典:Wikipedia |
水源の森百選選定されている日本水
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-10-20
日本水を汲むひとびと
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-10-20
この寄居町は自然と産業が調和する創造のまちとして水の郷百選に指定されており、森と川は重要な観光資源のほか、住民の憩いの場となっているが、こんなすばらしい場所に1日2000トン近くのゴミが持ち込まれ処理、処分されているこ自体、自己矛盾であるのではないかと思える。
私達は日本水の森を下り、長瀞側に出た。途中、菊水岩という史跡があった。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-10-20
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-10-20
下は道路を挟んで菊水岩の反対側にあった道祖神と石灯籠。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-10-20
つづく |