シルクロードの今を征く Now on the Silk Road はじめに シルクロードとは(About Silk Road) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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総合メニュー はじめに シルクロードとは 写真ギャラリー1 写真ギャラリー2 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料などに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています。 以下は、日本ウズベキスタン協会の公式Webに見る「シルクロードへの道」の詳細です。 シルクロードとは 以下は、日本ウズベキスタン協会の公式Webに見る「シルクロードへの道」の詳細です。 太古以来、アジアとヨーロッパ、アフリカを結んできた、東西交通路に与えられた総称が、「シルクロード」、すなわち絹の道である。 「シルクロード」という言葉を初めて用いたのは、ドイツの地理学者 F. リヒトホ-フェン(1833 ~ 1905 )である。リヒトホ-フェンは 19 世紀後半に中国各地を踏査し、1877 年から中国の地理に関する書物『中国』を著した。 その第 1 巻の中で、中国と西トルキスタン、および中国と西北インドとの絹貿易を取り結んだ中央アジアの交通路を「ザイデンシュトラーセン( Seidenstrassen )」と呼んだ。「シルクロード( Silk Road )」とは、その英訳である。 リヒトホ-フェンがこのように名付けた理由は、東西貿易における中国側の最も重要な交易品が絹であったことに目をつけたからだ。リヒトホ-フェンがザイデンシュトラーセンと呼んだ交通路は、西域を通る隊商路を指しており、現在考えられているシルクロードよりもずっと範囲が狭い。 後に中央アジア全域を調査したスウェーデンのスウェン・ヘディン( 1865 ~ 1952 )やイギリスのオーレル・スタイン( 1862 ~ 1943 )らは、この交流路が西域のオアシス地帯だけでなく、さらに西のイラン高原からイラク、シリアに出、その後、海路または陸路でローマに至っていたことに着目、中国とローマを結ぶ交易路全体をシルクロードと呼ぶようになった。 今日では、中国から中央アジア、西アジアを経てイスタンブールやローマに至る交易路全体を指し、さらにユーラシア大陸北方のステップ地帯を通る草原の道や、インド、東南アジアを迂回する海の道も加えるようになった。 つまりシルクロードは大別すると草原の道、オアシスの道、海の道の 3 つの道から成り立っているのである。しかし狭義にはシルクロードというとオアシスの道を指す場合が多い。
以下はシルクロードの草原の道、オアシスの道、そしてと海の道の概要です。 ●草原の道 南ロシアの草原地帯から、カザフ高原、天山山麓、モンゴル高原、長城地帯を結ぶ大ステップ地帯をつらぬく最も古い東西交易路。スキタイ、鮮卑、フン、アヴァ-ル、マジャール、突厥、ウイグル、モンゴルなどの遊牧騎馬民族の活躍舞台となる。 草原の道では、機動力を利用した騎馬民族が東西に移動して支配権を争うと同時に、中継貿易にも従事した。情報の収集に熱心で、積極的に新しい文化を受け入れようとした遊牧騎馬民族は、東西文化交流のうえで、直接・間接に大きな役割を果たした。スキタイ民族の金属器文化が東アジアに影響を与え、ネストリウス派のキリスト教やマニ教がトルコ系民族に伝えられたのはその例である。 スキタイ文化の東漸紀元前 8 世紀頃、南ロシアに栄えたスキタイ文化が、ステップ路を経て東漸し、モンゴル高原や華北に大きな影響を残した。紀元前 4 ~ 3 世紀に、モンゴル高原には匈奴や丁零の文化がスキタイ文化の影響を受けて生まれ、やがて華北やマンチュリア(中国東北地方)、朝鮮半島に、騎馬民族文化が大きな影響を及ぼした。 ●オアシスの道 リヒトホ-フェンが最初に指摘した中央アジアを東西に横断する道。 中国の古都・長安(現在の西安)から、中央アジアの砂漠を通り、パミール高原を越え、西トルキスタン、イランの砂漠を経て、地中海岸に達し、ここからアナトリアを通るか、地中海経由でイスタンブールまたはローマに達する。 中央アジアにはゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、カラクム砂漠、イラン砂漠など砂漠が多く、点在するオアシス都市が中継地の役割をなす。普通シルクロードというと、この道を指していう。 張騫が西域事情を中国に伝えてから活発となり、唐代までの東西交渉の主幹線をなした。特に 7 ~ 8 世紀にはイラン系のソグド人の貿易活動が盛んであった。 ●海の道 海の道においては、南インドが貿易の重要な中心地となっており、また、マラッカ海峡・インドシナ半島東南部は航海の要衝にあたっていた。北方民族の活動によって陸上交易路が妨げられた 10 世紀(中国の宋代)以後は、ますます海の道が栄えた。 海の道によって、南方産の象牙・犀角・香辛料(とくに胡椒)などが中国やヨーロッパに運ばれ、中国からは絹・陶磁器・銅銭などが大量に南方諸国に輸出された。また、東南アジアに、インドから仏教・ヒンドゥー教が伝わり、おくれてイスラム教が広まったのも、この海の道によっている。 紅海・アラビア海・インド洋沿岸から、マライ・スマトラ・インドシナ半島沿岸を経て中国南部に至る海上ルート。接岸航行を主としたが、危険性が高く、内陸コースより利用度が低かったと考えられる。唐とイスラム文化圏の成立以後、このルートは活発となった。15 世紀末に始まる新航路の発見以後は、一挙にメインルートの地位を占めるに至った。 写真ギャラリー1へつづく |