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莫高窟  百度百科9

 
(甘粛省敦煌市)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 起点の西安の次は中国敦煌市莫高窟の百度百科9です。

◆莫高窟 百度百科9(Mogao Caves, 中国敦煌市)


Source:Wikimedia Commons 

主要な風景

九階建て


莫高窟の主洞窟門の前で
撮影:随行学芸員 Nikon Coolpix S9900 


全国重点重要文物莫高窟遺跡碑の前で
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 敦煌・莫高窟

 敦煌・莫高窟  敦煌について書き遺された書物「莫高窟記」によると、この偉大な仏像は禅の師である霊隠と隠祖居士によって、唐時代武周(武則天の治世)証聖元年(695年)に建てられました。それは、仏国三世(過去世・現在世・未来世)の「未来仏」である弥勒仏であり、すなわち、釈迦牟尼の「後継者」です。

 注)弥勒菩薩
  とおい未来,慈しみにより生あるものすべてをすくうという菩薩。
  釈迦(しゃか)入滅後56億7000万年ののち,兜率天(とそつてん)から
  地上にくだり釈迦にかわって衆生を救済する。天での修行中を
  弥勒菩薩,未来仏としては弥勒如来(弥勒仏)と称する。日本には
  飛鳥(あすか)時代に伝来,平安時代には弥勒浄土信仰がさかんと
  なり,修験道にもとりいれられた。京都広隆寺の半跏(はんか)思惟
  像が有名。
  出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

 大仏の製造方法は、石胎泥塑法で、崖の壁の砂岩の上に、仏の体を鑿(のみ)で掘り出し概ねの形をつくり、それからその上に草を混ぜだ粘土塗って麻布をまき付け形を整えて、そして最後にそれを着色する方法です。この大仏は何度も再建されてきたため、唐の元来の姿をとどめていませんが、それでも雄大な壮大で迫力のある姿を残しています。

 洞窟の前の建物は9階建ての建物で、元々は4階建てで、唐代後期(874-879)に5層建てとなり、宋王朝(966年)初期に再度修理を行い、1935年に九階建ての建物が建設されました。それは、小高くそびえ、屋根の庇は高低が不揃いで、鉄製の馬がいる、ここが莫高窟のシンボルの一つとなっています。

 注)石胎泥塑法
  中国における塑像の造仏技法。甘粛省の麦積山石窟,炳霊寺
  (へいれいじ) 石窟は石彫に適さないあらい紅砂岩であるため,
  壁面を泥や石灰で整え,尊像は塑造によらなければならなかっ
  た。麦積山の塑像の多くは木で芯を作ってこれに塑土を盛って
  いるが,千仏廊の上下両層の千仏は,岩を大ざっぱに刻んで石
  芯を作り,これに塑土を盛って仕上げている。これを中国では石
  胎泥塑と呼んでいる。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際
      大百科事典 小項目事典


三階建て


ドアが閉められカギがかけられたる莫高窟の洞窟(第33洞窟9
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 敦煌・莫高窟


Map, showing the original entrance to Cave 17, the “library cave” in Dunhuang
Source:Wikimedia Commons

 第16~17窟が三階建てです。第16窟は唐代の大中5年から咸通年代(851~867)の間に建てられました。窟の前には、一部が崖と繋がっている三階建て木造建築の窟があり、庇もあるため、俗称「三層廊」と呼ばれています。清王朝時代の光緒32年(1906年)に、王道士の指揮によって修復され、王道士は第16窟の甬道北側に現在のチベット密教洞窟を発見士、後にそれを第17窟としました。したがって、3階建ても数少ない洞窟の1つです。

  注)甬道とは(白水社 中国語辞典より)
  この場合は、中庭や墓地の中央に敷かれたれんがや石畳の小道.≒甬路.
  また、大きな建築物の構内にある建物と建物の間の通路.

 その中でも、第17窟(唐代末期、848~906)は、チベット仏教の洞窟として知られており、第16窟の甬道の北壁にあり、これも唐代晩年に建設されました。これはもともと、唐代晩年の河西地域の仏教一門(釋門)すべての僧の系統(洪統)(寺院)の影窟として造られました。

 11世紀初頭には、戦争やその他の理由で、大量の仏教経典、仏画、仏具その他宗教関係や社会的な文献書物など5万点以上の文物がここに封印(秘蔵)されることになり、壁は封印され、表の壁は壁画で飾られました。こうして時間が流れ、封印されたことは次第に人々から忘れられていきました。

 1900年(清代光緒26年5月26日)、この秘密の部屋は王圓簶道士が砂を片付けたときに偶然発見しました。しかし、悲しいことに、1905年から1915年にかけて、イギリスのスタイン、フランスのペリオ、日本人の桔瑞超、吉川小一郎、ロシア人のエデンバーグなど多数がこの地に踏み入り、王道士から非常に安い価格でおよそ4万点の古代文献資料等を搾取しました。その中身は敦煌遺書を初めありとらゆるもので、、4~11世紀の古代中国の政治、経済、軍事、文学、歴史、医学・薬学、科学、文化、民族、宗教、芸術等の各分野を網羅しています。

 注)王円籙とは(コトバンクより)
 莫高窟は、敦煌周辺にある西千仏洞,楡林窟,水峡口窟とあわせて四つの
 石窟群のうち最も規模が大きく,造営期間が4世紀より千年の長さに及び,壁
 画,塑像など優れた遺品がすこぶる多い。1900年(光緒26)道士王円籙によっ
 て,一小窟(現在の第17窟)から4~5万点にのぼる古写本等の古文書や画巻
 が発見され,世界的に敦煌学が起こるきっかけとなった。莫高窟は1737年(乾
 隆2)常鈞が《敦煌雑抄》で紹介しているが,その学術研究は1823年(道光3)徐
 松が《西域水道記》に碑文と銘を記録し,莫高窟の草創を考証したのが始まり
 である。


莫高窟(百度百科10)つづく