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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

タジキスタン1

Tajikistan、タジキスタン)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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タジキスタン1  タジキスタン2  パミール高原  ドウシャンベ
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 次はタジキスタン1です。

◆タジキスタン1

 タジキスタン共和国(タジク語: Ҷумҳурии Тоҷикистон)、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家です。首都はドゥシャンベです。

 旧ソビエト連邦から独立した国で、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接します。

国名

  正式国名は、Ҷумҳурии Тоҷикистон。公式の英語表記は、Republic of Tajikistan。通称、Tajikistanです。国民・形容詞とも Tajikistani。日本語の表記は、タジキスタン共和国。通称、タジキスタンです。

 タジク人たちは遊牧をしていたアーリア系スキタイ遊牧民である。タジク人たちはテュルク人たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えました。タジク(ペルシア語ではタージーク、tājīk)の語源は明らかではないが、中国の唐朝がイスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人」を意味した語です。

歴史

紀元前から近世

 紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系のスキタイという遊牧民部族がユーラシア草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を作り上げていました。

 現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、さまざまな民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃し、パミール高原を境とする中国、インド・アフガニスタン、イラン・中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきました。

 反撃の過程ではスピタメネスを輩出しました。同時に山岳地域は被征服民族の「落武者の隠れ里」として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語、シュグニー語、ルシャン語、ワヒ語などのパミール諸語を話す民族を今日まで存続させてきました。


サーマーン朝のイスマーイール・サーマーニー廟
Source:Wikimedia Cmmons

 7世紀のイスラーム教徒のペルシア征服の後、8世紀に西方からアラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教を信奉するようになり、9世紀には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラを首都にサーマーン王朝を立てました。

 しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となります。やがてテュルク民族が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話すムスリム(イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となったのです。

 双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、たとえば「タジク」という呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド人」や「ブハラ人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティを求めることが多かったようです。

 16世紀にはタジクたちの中心地域であるマー・ワラー・アンナフル(ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、ヴォルガ川流域で強大になったウズベク人(シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てたブハラ・ハン国の支配下に入ります。

 アングロ・ペルシア戦争(1856年 - 1857年)後にパリ条約が締結されると、ガージャール朝がヘラートから手を引をひきました。19世紀にロシア帝国では軽工業を基幹とする産業革命が進行していましたが、1860年代前半に勃発したアメリカ南北戦争の影響から、それまでアメリカ合衆国南部で奴隷制プランテーション農業によって生産されていた綿花の値段が上昇したため綿花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国による中央アジアの植民地化阻止」および「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進および領土編入・保護国化が進められ、1868年にブハラ・ハン国はロシアの保護国となりました。

20世紀以降


ブハラ人民ソビエト共和国の国旗
Source:Wikimedia Cmmons

 20世紀初頭のオスマン帝国は1904年から1905年にかけての日露戦争での日本の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあったブハラ・ハン国の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先のドイツ帝国の首都ベルリンでロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせていますj。

 その留学生らは、日本の近代化の原動力を明治維新だと知ると、同じような自由主義革命の気運がガージャール朝ペルシア(1906年から始まったイラン立憲革命)やオスマン帝国(1908年から始まった青年トルコ人革命)に拡大しました。

 しかし、ロシアの力があまりに強大だったウラル山脈地域や中央アジアでは、社会主義革命に民族自決のための希望を見出しました。ロシア革命の影響を受けたブハラ青年らは保守的なブハラ・ハン国を倒壊し、1920年にブハラ人民ソビエト共和国を打ち立てました。

 しかし、1924年、ソビエト政府は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「サルト」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国が設置されました。

 このように、中央アジア地域ではナポレオンやフィヒテの唱えた西欧型民族自決の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府のイデオロギーレベルでは失うことになり、本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と少数民族と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになったのです。

 以上のような考え方はタジクへももたらされたものの、第一次世界大戦後のトルコ革命後にパミール地方へ逃れたエンヴェル・パシャ将軍らが唱えた「汎テュルク主義」はロシアとの対立を望まないケマル・アタチュルク率いる新生トルコ共和国により却下され、反ロシア・反ソヴィエトのバスマチ抵抗運動は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現しています。

 この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部は湾岸諸国やイラン、あるいは西欧に亡命して現在に至っています。一方で1929年、タジクはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつ、タジク・ソビエト社会主義共和国に昇格しました。ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、スターリン批判後の中ソ対立の文脈で1969年に発生した珍宝島/ダマンスキー島をめぐる中ソ国境紛争の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にあるゴルノ・バダフシャン自治州にあるムルガーブ県の一部領土が中華人民共和国に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見られているかと見間違うほどでした。

 こうして形成されたタジク国家は1990年に主権宣言を行い、1991年に国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、ソ連解体にともなって独立を果たしました。1991年11月大統領選挙でラフモン・ナビエフが当選し、共産党政権が復活します。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に参加し、ロシアとは同盟関係にあり、国内にロシア軍が駐留しています。


タジキスタン内戦(1992年)
Source:Wikimedia Cmmons

 1992年、タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こりました。11月に最高会議(共産党系)はエモマリ・ラフモノフ(1952 - )を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧しました。

 1994年4月、最初の和平交渉が行われました。11月の大統領選挙が行われ、1997年6月の暫定停戦合意で反対派は政府ポストの3割を占めました。5万人以上の死者を出した内戦が終わりました。エモマリ・ラフモノフ(現在はラフモンと改名)大統領の就任以来、国際連合タジキスタン監視団(UNMOT)のもとで和平形成が進められてきましたが、1998年には監視団に派遣されていた秋野豊筑波大学助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こっています。

 1997年に内戦は終結しました。UNMOTは2000年に和平プロセスを完了させ、以後は国際連合タジキスタン和平構築事務所(UNTOP)が復興を支援しました。2001年の対テロ戦争以来、フランス空軍も小規模ながら駐留しています(2008年現在)。

 ラフモン大統領の長期政権によって、上海協力機構に加盟してロシアや中華人民共和国と関係強化し、アメリカ合衆国とも友好を築き、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、21世紀に入ってからは年10パーセントの高成長率を維持しているようです。

 2011年1月12日、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原の約1,000平方キロメートルが中国に割譲されることになりました。

近況

 ラフモン政権下の同国は自国民の愛国心を高めるためとして、ソ連時代から用いられ続けていた(公用語としての)ロシア語を2009年に廃止しました。

政治


エモマリ・ラフモン大統領

政治体制

 タジキスタンの政体は共和制をとる立憲国家です。現行憲法は1994年11月に採択されたものです。

行政府

 国家元首として強大な権限を憲法により保障されている大統領は、国民の直接選挙で選出されます。大統領は首相を任命します。副大統領職はありません。大統領の任期は7年ですが、2016年の国民投票で、現職のラフモン大統領に限り任期制限が撤廃する憲法改正案が承認されました。

 内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、最高会議の承認のもとに大統領が任命します。

立法府

 立法府は二院制の最高会議(マジリシ・オリ)で、国民議会(上院、マジリシ・ミリー)と人民代表議会(下院、マジリシ・ナモヤンダゴン)で構成されます。国民議会は33議席で、うち25議席は地方議会による選出枠、残りは大統領が任命します。人民代表議会は63議席で、そのうち41議席は小選挙区制、22議席は比例代表制で選出されます。両院とも任期は5年です。

 2015年3月1日には下院選挙が行われました。

司法

 最高司法機関は最高裁判所で、その裁判官は大統領が任命します。

地理

 国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高3,000メートル以上であり、中国との国境に至る東部は7,000メートル級に達するパミール高原の一部です。首都のドゥシャンベの標高は700 - 800メートルほどとそれほど高くなく、北西部のフェルガナ盆地は標高300 - 500メートル前後ともっとも低くなっており、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接しています。

 一方、パミール地方のゴルノ・バダフシャン自治州の州都ホログは標高2,000メートルを超す。最高峰はイスモイル・ソモニ峰(7,495メートル)、次いでレーニン峰(7,130メートル)、コルジェネフスカヤ峰(7,105メートル)と3つの7,000メートル級の山があります。主要河川は、アムダリヤ川、ヴァフシュ川、パンジ川、バルタン川(英語版)、ザラフシャン川(旧ソグド川)です。

地方行政区分


タジキスタンの衛星写真
Source:Wikimedia Cmmons

首都ドゥシャンベは西の平野部に位置します。

 地方は3つの州と1つの自治州に分けられます。すなわち、共和国直轄地(首都ドゥシャンベを含む)、南部のハトロン州(州都クルガン・テッパ)、北部フェルガナ盆地方面のソグド州(州都ホジェンド)の2州と、東部パミール高原のゴルノ・バダフシャン自治州(州都ホログ)です。

 州より下の行政単位は、行政郡(nohiya)- 地区(jamoat)- 村(deha)あるいは集落地が一般的であり、行政郡の中心部に市(shahrak)を置くこともあります。ただし、地方の大きな都市は独立した行政単位であり、特に首都のドゥシャンベは非常に権限の強い行政単位です。ドゥシャンベの内部は区(nohiya)が置かれ、住民自治の一端を担っています。

主要都市

 ドゥシャンベ以外その他の主要都市はパンジケント、ガルム、クリャーブなどがある。

経済

首都ドゥシャンベ

 タジキスタンは中央アジアの中でもっとも貧しいのですが、内戦終結後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達しました。主要歳入源はアルミニウム生産、綿花栽培、国外出稼ぎ労働者からの送金です。人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金し、その額は2016年現在、GDPの3分の1にあたります。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っています。おもにロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入です。


通貨はソモニである。

農業

 タジキスタンではおもに小麦や米が栽培されています。

 農産物の中で重きを置かれているのは綿花です。綿花の栽培はソ連時代から行われており、ソ連の構成国家だった当時は、ソ連全体の綿花栽培では重要地域のひとつとして注視されていました。タジキスタン国内で綿花は小麦と同じく農作物の主産物であり、国の社会生活に深くつながっています。

 ただし、ソ連崩壊後から状況が一転し、近年では農業改革によって作付けの農作物を自由に選べるようになっていることも加わり、栽培の割合が減少傾向にあります。作付面積はソ連時代と比べると60%強ほどです。

鉱業

 アンチモン鉱を2002年時点で3,000トン採鉱しました。これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当します。この他、金、銀、水銀(20トン、世界シェア1.1%)、鉛を産します。有機鉱物資源は亜炭、原油、天然ガスとも産出しますが量は多くなく、ウラン鉱も存在します。

エネルギー

 タジキスタンのエネルギー供給は、世界一高いヌレークダムや中央アジア - 南アジア電力供給計画の一環として設計され近年完成間近であるサングトゥーダ・ダムなどで行っている水力発電に完全に依存しています。水が足りなくなる冬季には、首都では都市セントラルヒーティング用のボイラーを使った小さな火力発電所しかなくなります。

 その他には、ザラフシャン川などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、冬季にウズベキスタンやトルクメニスタンから電力を輸入している。

 7,000メートルを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電でまかなっています。

 安価で大量の電力生産は精錬に膨大な電力を必要とするアルミニウム工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達しますが、原料となるボーキサイトはウクライナなどの外国からの輸入に頼っています。輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達します。

国民

 おもな民族はタジク人、ウズベク人、ロシア人など。タジク人の話すタジク語はペルシア語に近く、方言の一種とされています。民族的にはイラン人に近いと考えられますが、タジク人を含めたタジキスタンのムスリム(イスラム教徒)の間ではスンナ派が多数を占め、イラン・イスラーム共和国の国教と同じシーア派の十二イマーム派の信徒はほとんどいません。むしろ、東部のパミール高原ではシーア派のイスマーイール派の信徒が大部分を占め、パキスタン北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いています。

言語

 チュルク系の言語が使われている中央アジアの中では唯一、住民の大多数の母語がペルシア語方言のタジク語であり、公用語となっています。帝政ロシア~ソビエト連邦時代の共通語であったロシア語は第二言語として教育・ビジネス等で多く使用されています。ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられました。

 ソ連崩壊後に起きたタジキスタン内戦によるロシア人の大量流出によりロシア語の通用度が急激に低くなりましたが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり、国民の間ではロシア語学習熱が強いと言えます。

 また、独立後にトルコ語系のウズベク語やトルクメン語がキリル文字からラテン文字へ変わりましたが、ペルシャ語系のタジク語はキリル文字のままです。なお、ペルシャ文字風のキリル文字表記もみられ、ペルシャ文字への表記への移行も議論されています。

 また、他にウズベク語、キルギス語、コワール語、シュグニー語、パミール諸語、ヤグノビ語なども使われています。

宗教

 タジキスタン国民の多くはムスリムであり、スンナ派が大半を占めます。また、歴史的にペルシャとの結びつきが強く、哲学者イブン・スィーナーなどのペルシャ人は尊敬されています。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡ならびにムルガーブ郡を除くゴルノ・バダフシャン自治州では、服装・戒律ともきわめて緩やかで、開放的なシーア派のイスマーイール派が大多数を占めます。

 イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも精神的・思想的指導者としての面が強く、国境をまたいだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネスおよび人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。

 2003年の推計では国民の85%がスンナ派ムスリム、5%がシーア派ムスリム、10%がその他でした。


構成民族

 以下はタジキスタンを中心とした中国、キルギス、ウズベキスタン、アフガニスタンの民族構成割合です。


中央アジアにおけるタジキスタンとその周辺国 出典:毎日新聞


教育

 2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である[16]。2011年の教育支出はGDPの3.9%だった。

文化

イド・アル=フィトルを祝うタジク人家族

 タジキスタンの文化は、ウズベキスタンの文化と同根ですが、ソビエト時代の共産政権下においては地域の文化組織は崩壊し、ウズベキスタンの文化とは分断されました。しかし、このことはすべて悪い結果をもたらしたわけではなく、ソビエト時代には、タジキスタンは劇場と有名な小説家を輩出することにより知られていました。これらタジク知識人士は、タジク語とアラビア語・ペルシャ語との関連性を調節し、タジク語をより洗練されたものにしました。

世界遺産


 タジキスタン国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件存在します。

 文化遺産 サラズムの原始都市(2010年)

 自然遺産 タジキスタン国立公園 - パミールの山々(2013年)


サマルカンド・ブハラへつづく