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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

 アララト山

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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エルズムル1   エルズムル2   エルズムル3  アララトト山  ノアの方舟1  ノアの方舟2

 次はトルコのアララト山です。

◆ノアの方舟2

捜索

 聖書の記述から探索・捜索・発掘などがなされることはヨーロッパ諸国では珍しいことではなく、今までにも「エデンの園」「ソドムとゴモラ」「イエス・キリストの聖杯」など、常に捜索対象となっています。

 『旧約聖書』内の記述から、実際に多くの学者や冒険家たちによって、この方舟の捜索がなされてきました。もっとも「方舟を探しに行った探検隊が手ぶらで帰ってきたという話は一度も聞いたことがない」、「木製の箱舟はとっくの昔に腐食して土に還っている」という皮肉交じりの意見もあります。

 現在までに、アララト山に漂着したとされる「方舟発見」の報告が何例かなされています。

 古くは、紀元前3世紀に、バビロニアの歴史家ベロッソスが書き残していました。

 1世紀のユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の中で「アルメニア人が箱舟がたどり着いたとされるところを『上陸地点』と呼び、今でも残骸を見せてもらえます。」と記述している他、以前の人の記述としてカルデア人ベーローソス(上述のバビロニアのベロッソス)の「箱舟の一部は現在でもアルメニアに残っていて地元の住民はアスファルトを剥がして魔除けに使う」の話などを乗せています。

 
13世紀には、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で言及していました。

 中世にはアララト山自体、神聖視されていましたが、1840年の火山噴火により、付近一帯が壊滅状態となりました(それ以降の噴火はありません)。

残骸発見 以下には独自研究が含まれています。

 現在までに、アララト山に漂着したとされる「方舟発見」の報告が何例かなされています。

 古くは、紀元前3世紀に、バビロニアの歴史家ベロッソスが書き残していたまし。

 1世紀のユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の中で「アルメニア人が箱舟がたどり着いたとされるところを『上陸地点』と呼び、今でも残骸を見せてもらえる。」と記述している他、以前の人の記述としてカルデア人ベーローソス(上述のバビロニアのベロッソス)の「箱舟の一部は現在でもアルメニアに残っていて地元の住民はアスファルトを剥がして魔除けに使う」の話などを乗せています。

 
13世紀には、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で言及していました。

 中世にはアララト山自体、神聖視されていましたが、1840年の火山噴火により、付近一帯が壊滅状態となりました(それ以降の噴火はありません)。

 1883年の火山性地震により、ノアの方舟の残骸らしき、古い木材建造物が一部露出します。トルコ政府関係者が調査するも、内部が崩落する危険性があり、途中で断念。その際に、欧米諸国にニュースが報じられます。

 詳しい年代は定かとなっていませんが(1880年 - 1910年頃であろうと推測される)アララト山周辺を勢力圏としていた帝政ロシアが大規模な捜索隊を編成しノアの箱舟の残骸を捜索しかなりの成果を収めたものの、ロシア革命の混乱が原因で公表される前にその資料が遺失してしまったといいます。

 1920年以降、様々なレベルで調査が、その都度行われています。標高はおよそ、5,000メートル付近といわれています(その後、地震や氷河の融解によって、渓谷を滑り落ち、下に移動していったとする説もありました。またこの近辺は、冬期間は完全に氷河に閉ざされてしまいます)。

 戦後、米国の軍事衛星による撮影でCIA内部でも実在説を支持する勢力が増えたことがあります。

 1950年代の複数の調査によると、氷河に閉ざされていた影の長さは120 - 130mあったと報告されました。また、その数年後に調査したグループが、残骸から切り取ったとされ、ほぼ炭化しかけていました、化石といってもよいような木材を、数箇所の大学や研究機関で、放射性炭素14法などを用いて年代測定したところ、およそ、カイロ博物館では紀元前3000年 - 紀元前4000年、エジプト農務省では紀元前5000年、マドリード大学などいくつかの大学では紀元前2000年~紀元前3000年といった結果が出ました。

 一方で、カリフォルニア大学など、アメリカのいくつかの大学では、およそ1200年前~1400年前という結果が出たといいます。その材質はオーク材でした。『聖書』の「ゴフェルの木」は、一般に「イトスギ」と訳されていますが、実は「ホワイトオーク」であったとする科学的な見解もあります。ただし、この近辺1000km四方に、ホワイトオークは古来から存在しないため、証言どおりであるならば、明らかに、遠い過去の時点で、大量にその地帯に持ち込まれた、あるいは、運び込まれた材質であるといえます。

 1959年には、トルコ空軍による報告が残されています。

 1960年代に入ると、冷戦激化に伴い、旧ソビエト連邦と国境を接するこの地区には入ることが不可能となりました。しかし、駐トルコのアメリカ空軍によって、この船影らしき長方形の黒ずんだ物体が、何度も確認されたといいます。これらは、アララト山北東斜面に集中しているといわれています

それらの情報を総合すると、箱舟伝説を信じる調査者たちの中では、現在は、北緯39°26′4″、東経44°15′3″、海抜1870m付近のものが有力とされています。

 ノアの方舟かどうかは不明ながら、現在、それらとは別のものと臆される船型地形の現地写真のみならず、人工衛星写真も撮られていて、こちらは、文字通り船型をしています。全体のサイズは、聖書の記述とほぼ合致するといわれています。掘削調査は行われていませんが、非破壊の地中レーダー観測も行われ、竜骨など木製内部構造も調査されています。

 また、石材製の碇と思われる巨大なパーツや、同じく、石製のリベットらしきパーツも、その地形周辺から出土しています。

 2010年4月27日にトルコのアララト(Ararat)山の山頂付近(標高およそ4000メートル地点)で、方舟の木片を発見。炭素年代測定を行ったところ、ノアの方舟がさまよったとされる今から4800年前と同時期のものであることが確認されます。発見された構造物はいくつかの部屋らしきものに分かれていたことから、普通の住居の残がいなどではあり得ないと結論しました(標高3500メートル以上で人の住まいが発見されたことは過去にない事由によります)。

大洪水について

 古代の大洪水にまつわる伝説や神話(大洪水神話)は、世界中に存在し、その発生を主張する学者や研究者も多いのです。但し、それが、『創世記』やメソポタミア神話(特に『ギルガメシュ叙事詩』)にあるように、世界規模で起こったとする者は少なく、「メソポタミア近辺での、周期的な自然災害」、あるいは、「氷河が溶けた当初の記憶」などと見解の方が多く、「地球規模で発生し、人類や生物の危機となった」とする、それらの神話の記述との食い違いもみられます。

 メソポタミア地方周辺の地質調査の結果、実際に洪水跡と推測される地層の存在が確認されています。しかし、この災害が、この地方の神話や『聖書』内の大洪水の伝承の元となったとするならば、ローカルなレベルでの比較的大規模な洪水であったという域を出ず、世界的な大洪水の証拠とはなりません。

 また、方舟に収容された「雌雄一対(つがい)の動物」とは、成体である必要はなく、洪水の期間や塩分濃度およびその間の餌の確保という(重大な)問題を除くなら、水中で生息できうる動物の収容の必要はない、との見解もある。
『聖書』を信じる創造論者の中には、アメリカ合衆国のグランド・キャニオンなども、この大洪水が原因で生成されたとし、大陸移動や氷河期などもこれ以降に急激に発生し、恐竜などの絶滅もこれに起因し、各種化石もこの洪水の作用によって作られたとする説を唱えるものもいる。

『灼熱の氷惑星』(高橋実著、原書房1975年発行、現在絶版)にノアの大洪水の原因について天文学的見地から仮説・検証を行っている。約3000年周期で地球を訪れる地球とほぼ同じ大きさの氷(水)で組成された彗星「天体M」によるものと記述されている。地球軌道に近づくにつれ、「天体M」は水の天体となり、地球に接近した時には大音響と共に地球に約600京トンの水をもたらした。その洪水(津波)は直撃地点付近で8750メートルとなり、地球全域を覆い、地球上の海面を100メートル以上上昇させた事が原因であるとし、さまざまな洪水伝説との類似点も検証している。地球は、惑星としてはあまりにも水が多く、その原因として著者は「天体M」を仮説として考えた。現在は地球に向かって来る後半の1500年以内に相当するものであると記述されている。疑似科学の一種であり、飛鳥昭雄などはこの説を継承している。
現在の黒海が形成された際の洪水や(黒海洪水説)、エトナ山噴火に伴う津波が大洪水の原因という説が最近あげられつつある。


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つづく