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Now on the Silk Road  中国歴史・文化概説

中国への仏教伝来

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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中国への仏教伝来
仏教のシルクロード伝搬
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆中国への仏教伝来


仏教の東方伝播
Source: Wikimedia Commons
Pqks758 - Image:MahayanaMap.gif, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 以下は仏教のインドから中国、韓国、日本など東方伝播の流れを示しています。

 これにはインド→ネパール→チベットルート、インド→中央アジア(ネパール)→中国西域ルートなどがあります。

 一方、日本への仏教伝来は中国経由以外に中国→新羅経由、また中国→高句麗経由で伝来したもの、さらに中国本土から台湾経由で伝わったルートもあります。


仏教のシルクロード伝播
Source: Wikimedia Commons
Gunawan Kartapranata - 投稿者自身による作品 combined and redrawed from various sources, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 ここでは中国への仏教伝来のうち、中国地域の仏教伝来の歴史について時代区分ごとに紹介します。

 なお、脚注については、その都度、下段につけています。主な出典は日本語版のWikipediaです。

◆後漢(伝来)

 中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定されています。

 伝来に関する説話は幾つかありますが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話です。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録があります[1]。

 注1)岡部和雄、田中良昭・編 2006, p.97-p.98.

 また、1990年代以降に古代中国に仏教が伝来した時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からも、この時代に仏像が伝来していたことが立証されています。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定されます。

 また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られています。

 桓帝の時代にインドや西域の仏教者が漢土に到来し、洛陽を中心に仏典の翻訳に従事しました。なかでも安世高、安玄、支婁迦讖(支讖)、笠仏朔(笠朔仏)、支曜、康巨、康孟詳、笠大力らが経典の訳出に携わりました。また初めての漢人出家者として厳仏調が現れ、安玄の訳経を助けた[2]。

 注2) 岡部和雄、田中良昭・編 2006, p.98.

  この時代の仏教書としては『牟氏理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられますが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強いと言えます。

 明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となります。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の禅観に関する経典やアビダルマ論書である『阿毘曇五法行経』を訳しました。

 また『出三蔵記集』巻七、「道行経後記」によれば、霊帝の時代に笠仏朔、支婁迦讖らが大乗経典の『道行般若経』を訳出したといいます[3][2]。

 注3) 「光和二年十月八日。河南洛陽孟元士口授。天竺菩薩竺朔仏時伝言者訳。
  月支菩薩支讖時侍者南陽張少安 南海子碧。勧助者孫和周提立。正光二年九月
  十五日洛陽城西菩薩寺中沙門仏大写之。」(道行経後記第二)


 また『般舟三昧経』が光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳されました(『道行般若経』は同年10月18日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至りました。インドや西域など幅広い地域から部派仏教と大乗仏教双方の仏典が時を同じくして相次いで訳されました。[2]

三国・両晋・五胡十六国

 紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始されました。この時代は華北のみならず、江南地方でも支謙や康僧会によって訳経が始まり、それと同時に仏教が伝えられました。その一方で、中国人の出家者が見られるのはこの時代からです

 。記録に残る最初の出家者は、朱士行である。また、この時代の主流は、支遁(314年 - 366年)に代表される格義仏教でした。訳経僧の代表は、敦煌菩薩と呼ばれた竺法護です。

 紀元4世紀頃から、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什(344年 - 413年)などの高僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こします。前者は後述の釈道安(314年 - 385年)の師であり、後者は、唐の玄奘訳の経典群に比較される程の数多くの漢訳仏典を後世に残しています。

 仏図澄の弟子である釈道安が出て、経録(経典目録)を作り、経典の解釈を一新し、僧制を制定したことで、格義仏教より脱却しました中国仏教の流れが始まります。釈道安の弟子である廬山の慧遠(334年 - 416年)は、白蓮社を結成しました。

南北朝

 5世紀になると、『華厳経』、『法華経』、『涅槃経』などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになります。また、曇鸞(476年 - 542年)が浄土教を開きました。東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まります。

 注)華厳経
  仏教経典。詳しくは『大方広仏華厳経』。サンスクリット語で書かれた完全な
  形の原典は未発見。おそらく4世紀頃中央アジアで成立したものであろうとい
  われる。いわば,小経典を集成して『華厳経』といったもので,最初からまとま
  って成立したものではなく,各章がおのおの独立した経典であったと考えられる。
  このうち最古のものと考えられる章は,菩薩の修行の段階を説いた「十地品」
  で,1~2世紀頃の成立。このほか『華厳経』のなかには,善財童子が法を求め
  て 53人を歴訪する文学的な美しい求道譚「入法界品」も含まれている。漢訳で
  は 60,80,40巻より成る『六十華厳』『八十華厳』『四十華厳』などがあり,最後
  のものは,前2者中の「入法界品」に相当する。思想的には,現象世界は互いに
  働きかけつつ交渉し合い,無限に縁起し合うという事事無礙 (じじむげ) の法界
  縁起 (ほっかいえんぎ) の思想に基づき,菩薩行を説くことを中心としている。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典

 注)法華経
  大乗仏教の重要な経典の一つ。正しくは『妙法蓮華経』 Saddharmapuṇḍarīka-sūtra。
  成立年代不詳。数種のサンスクリット原典が現存。漢訳では鳩摩羅什のものが
  最も有名。ほかに竺法護訳『正法華経』,闍那崛多,達磨笈多共訳『添品妙法蓮
  華経』がある。またチベット訳,ウイグル語訳,西夏語訳,モンゴル語訳,満州語訳,
  朝鮮諺文訳などがあり,この経典が非常に広い地域にわたって読誦されたことが
  わかる。日本仏教史上においてもきわめて重要視され,この経典を根幹として天台
  宗,日蓮宗が開かれた。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典

 注)涅槃経
  仏教経典。サンスクリット語でマハーパリニルバーナ・スートラMahparinirva-straと
  いう。すなわち仏陀(ぶっだ)の入滅(にゅうめつ)に関して説いている経典である。
  これには数種があり、(1)入滅直後に、その前後の事情、荼毘(だび)、仏塔の建立
  などの事実を述べたもので、漢訳『長阿含(じょうあごん)』中の『遊行経(ゆぎょうきょう)』
  など、(2)大乗の立場から「大般涅槃」の意義を問うてつくられた経典、(3)その中間的
  なもの――『遺教経(ゆいきょうぎょう)』など、とに分かれる。日本で一般に「涅槃経」
  とよばれるのは(2)で、曇無讖(どんむしん)訳『大般涅槃経』40巻(「北本」という)、ある
  いはその再治本36巻(「南本」という)をさす(異訳に法顕(ほっけん)訳『大般泥経(ない
  おんぎょう)』6巻〈曇無讖訳の最初の10巻分相当〉がある)。また、チベット訳2種(一つ
  は梵(ぼん)本からの訳、13巻。他は曇無讖訳に、闍那崛多(じゃなくった)訳の『後分』2巻
  をあわせたものからの訳、56巻)があるが、梵本は欠。大乗の『涅槃経』は『法華経(ほけ
  きょう)』の後を受けて、如来(にょらい)が常住で変易なく、また、一乗のゆえにすべての
  衆生(しゅじょう)に仏性(ぶっしょう)すなわち仏となるべき因が本来具(そな)わっていること
  を教える。この衆生の本性は、常楽我浄(じょうらくがじょう)の四徳を具えた如来の法身
  (ほっしん)にほかならず、また、般若(はんにゃ)(さとりの智慧(ちえ))と解脱(げだつ)と法身
  とは、梵語のイ字の三点のごとく密接不離な涅槃の三徳であるという。11巻以後は、この
  如来常住(にょらいじょうじゅう)と悉有仏性(しつうぶっしょう)の教義をさらに種々の比喩(ひ
  ゆ)や菩薩(ぼさつ)の活動を通し、聖行(しょうぎょう)、梵行(ぼんぎよう)、天行(てんぎょう)、
  嬰児行(ようにぎょう)、病行の五行によって敷衍(ふえん)、展開している。この経は中国で
  南北朝時代に『法華経』と並んで尊重され、とくに仏性思想は後の中国・日本の仏教に
  大きな影響を与えた。[高崎直道]
  『横超慧日著『涅槃経』(1981・平楽寺書店・サーラ叢書)』
  出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)

 またこの時代、北朝の北魏では、太武帝の廃仏(三武一宗の廃仏の第1回目)の後、沙門統の曇曜を中心に仏教が再興され、平城郊外には大規模な仏教石窟寺院である雲岡石窟が開削されました。その後、孝文帝が洛陽に遷都すると、仏教の中心も洛陽に移り、郊外の龍門に石窟が開かれました。

 また、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並び、そのさまは『洛陽伽藍記』として今日に伝えられています。永寧寺の壮大な伽藍を見た達磨は、連日「南無」と唱えたといいます。

 一方、南朝でも仏教は盛んでしたが、中でも、希代の崇仏皇帝であり、またその長命の故にか、リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになります、梁の武帝の時代が最盛期です。都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市でした。

 このような北魏及び梁の南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北においては六鎮の乱に始まる東西分裂、南では侯景の乱によるあっけない梁の滅亡によって、一転して混乱の極地に陥ることとなります。

 そして、それを決定づけたのが、北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀と、通道観の設置です(三武一宗の廃仏の第2回目)。当時、慧思の「立誓願文」に見られるような、中国で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、中国仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件です。



 北周の覇業を継承した隋の文帝は、陳を併合することで、西晋以来の中国の統一を成し遂げます。しかし、宗教政策においては、武帝のそれを継承せず、仏教復興政策というよりも、儒教に変わって仏教を中心に据えるほどの仏教中心の宗教政策、いわゆる仏教治国策を展開することとなります。

 漢代以来の長安城の地を捨てて新たに造成され、唐の長安の礎となる大興は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となります。また、文帝はその晩年、崇仏の度を増し、中国全土の要地に舎利塔を建立し、各地方の信仰の中心としました。

 その年号をとって、仁寿舎利塔と呼ばれる。これが、日本の国分寺の起源となるものです。また、その発想は、インドのアショーカ王が各地に建てたという仏塔(ストゥーパ)に通じています(中国では阿育王塔という)。

 隋の第2代皇帝である煬帝は、暴君の悪名高い天子でしたが、その即位前、晋王時代より、天台智顗を崇敬したことで知られ、智顗より菩薩戒を受けているほか、行在所に初めて内道場を設けてより身近な場所で仏教を信仰しました。

 6世紀には、次々と仏教宗派が生まれました。但し、中国における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代の南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものでした。

 菩提流支(508年 - 535年)による地論宗
 真諦(499年 - 569年)による摂論宗
 菩提達摩(? - 528年?)によるとされる禅宗
 智顗(538年 - 597年)による天台宗
 吉蔵(549年 - 623年)による三論宗
 杜順(557年 - 640年)による華厳宗
 道綽(562年 - 645年)による浄土教

 これらの中で、隋唐代に教団的色彩を持つに至るのは、天台宗と禅宗です。



 唐の建国当初、仏教は未だ国家の統制下にあり、造寺や度僧は制限を受けていかした。更に、高祖代には、排仏主義者で元道士の太史令・傅奕による排仏案が何度も献策されていました。

 紀元7世紀の最も重要な高僧は、玄奘三蔵(600年 - 664年)です。

 唐の国禁を破って天竺(インド)へ仏典請来の大旅行を決行しました(630年 - 644年)。彼の請来した仏典は、太宗の庇護を受けて、組織的に漢訳が進められ、後世の東アジアの仏教の基盤となりました。彼の弟子の慈恩大師基(632年 - 682年)は法相宗を開宗しました。

 この時代の各宗派の状況を順に上げれば、善導(613年 - 681年)が浄土教を大成しました。禅宗は、第五祖弘忍(602年 - 674年)以後、南北二宗に分裂しました。分裂当初は、長安を中心とした唐の中心部、都市部に教線を張った神秀(? - 706年、第六祖)の北宗が優勢でしたが、慧能(638年 - 713年)が禅宗の諸派中、後に主流となる南宗において第六祖と呼ばれました。法蔵(643年 - 712年)が華厳宗を確立した。善無畏(637年 - 735年)金剛智(669年 - 741年)が密教を伝えました。

 もう一つ、この時代の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在です。各宗派の僧が一緒に住むのが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派とは別組織としての、独自の三階寺院を持つに至りました。しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなりました。

 また、唐朝を一時中断させて武周朝を建てた武則天も、妖僧薛懐義を重用し、一種の恐怖政治を行うなど問題が多いのですが、熱心な仏教信者でした。その武周革命には、偽作とはいえ仏教経典である『大雲経』を利用しており、日本の国分寺に通じる大雲経寺を各地に建立しました。

 また、同姓の老子(李耳)を祖と仰ぐ唐の慣例で宮中での席次は「道先仏後」と定められていたものを「仏先道後」に改めました。さらに、自身の姿に似せたという大仏を龍門の奉先寺に造営し、その威容は今日まで伝えられています。

 紀元8世紀には、不空(706年 - 774年)が密教を大成しました。不空の弟子の恵果の密教は、真言密教として日本の空海に伝えられることになります。

 一方禅宗の方は北宗禅の神秀の下を出た荷沢神会(684年‐758年)が慧能に参じ、自らを七祖とし、慧能を禅宗六祖とする南宗禅の立場を確立しました。

 紀元9世紀は、黄檗希運(? - 850年頃?)、臨済義玄(? - 867年)、趙州従諗(778年 - 897年)らの禅宗(南宗)が盛んでした。

 また、この時代、仏教信者の多い宦官勢力に影響されて、仏教を崇敬する皇帝が多く現れました。第11代の憲宗も、そういった皇帝の一人でした。彼は、30年に一度しかいわゆる御開帳されない法門寺の仏舎利を長安に迎えて盛大な法会を執行しました。韓愈は、「論仏骨表」を上奏し、その偽妄であることを直諌しましたが、受け入れられる筈もなく、当時は未開発であり、風土病などによって中央の人々から恐れられていた広東省に左遷されることとなりました。

 しかし、武宗の会昌年間(841年 - 846年)の会昌の廃仏(法難)と呼ばれる仏教弾圧事件(三武一宗の廃仏の第3回目)を契機として、仏教の勢力は急速に衰えることになりました。この事件の同時代資料であり、その状況を現代に伝えるのは、日本の入唐僧円仁の入唐求法巡礼行記です。但し、弾圧自体は武宗の治世のみで取りやめられ、次の宣宗以降、仏教は復興することとなります。

 廃仏より復興はするが、この時期、唐朝自体が安史の乱以降、各地の節度使勢力によって中央集権的な求心力を失っていたこともあり、往日の長安(現在の西安)を中心に繁栄した様が再現されることはありませんでした。やがて、黄巣の乱を契機として、唐は一気に衰亡の一途をたどりました。

五代・宋・元

 唐が滅亡した後、五代十国の分裂時代になり、五代最後の後周の世宗によって廃仏事件が起きました(三武一宗の廃仏の第4回目)。

 北宋の統一後、宋の太祖は行き過ぎた仏教への投資をやめ、出家制度においては度牒の出売を行なって、国家財政の一助とするとともに、賜額制度、寺院の資産への課税による寺院統制を行い、やがて五山十刹制度として国家の統制の下に管理する事に成功しました。

 また宋代には、司馬光の『資治通鑑』の影響を受けて、志磐の『仏祖統紀』に代表される、通史として叙述された仏教史書が編纂され、その傾向は元代から明初にまで及びました。

 中国地域の仏教は北宋以降、禅宗と浄土教を中心に盛んでしたが、元・清の時代には王朝がチベット仏教に心酔したこともあり、密教も広まりました。

 また一方で、『輔教編』を著わして儒・仏の一致を説いた北宋の仏日契嵩や、『三教平心論』を著わした劉謐らに、儒教と仏教、あるいは道教も含めた三教が融合すると主張する傾向も見られ、インド起源の仏教が次第に本来のインド的な特色を失い、中国的な宗教へと変貌を遂げて行く時期でもあります。

 やがて、その傾向は、仏教とは一線を画した民間宗教としての、白蓮教や白雲宗として、姿を現すこととなります。同時に、それらの民間教派は、時の政府の弾圧の対象、いわゆる邪教として、取り締まられ排斥されるようになります。

明・清

 明・清代になると、仏教教団、とりわけ出家者である僧尼には目立った活動をする者が、雲棲祩宏(1535年 - 1615年)ら四大師と称される一部しか見られなくなりました。

 その一方で、知識層においては在家の居士による居士仏教が盛んとなり、一方では、儒教や仏教、道教の要素を取り入れながらも、それら三教とは一線を画した民間宗教の経典である宝巻を所依の経典とする羅教等の、三教の伝統的教派とは、より異質な民間宗教が現れてきます。これらの教派に至っては、秘密結社である青幇や紅幇との結びつきが密接になりました。

 清朝末期になると、楊文会を中心とした開明的な居士仏教の運動が起こります。金陵刻経処で新たに経典を刊刻したり、日本の南条文雄や、インド・ヨーロッパの仏教学者と交流をはかるなどの活発な活動を行いました。また、当時の思想界にも影響を与えました。

中華民国
台湾の仏教
中華人民共和国


 第二次世界大戦が終わり、中国国民党が台湾に逃れて、中国共産党により中華人民共和国が成立すると、政府が宗教活動を統制するために中国仏教協会が設立されてダライ・ラマは名誉会長を務めました。

 注)ダライラマについて
  ダライ・ラマは、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位
  クラスに位置する化身ラマの名跡。チベットとチベット人民の象徴たる地位にある。
  ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、
  チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時
  期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから
  統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱
  の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称
  チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。
  現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神
  的指導者として位置づけられている。

 その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである[1]。

 注1)岡部和雄、田中良昭・編 2006, p.97-p.98.

ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから統治するチベット政府を指揮することがあった。

 現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。

 1960年代の文化大革命では極端な弾圧と破壊が行われ、中でもチベット地域では、多数の寺院が破壊され、多数の僧侶が虐殺され、ダライ・ラマを初めとするチベット政府はインドへ逃れざるを得なくなりました。

 21世紀現在では、中国政府は仏教文化を破壊した文化大革命の非を認め、再び仏教文化の保護政策に戻っています。日本との国交正常化直後には中国国内の仏教寺院は荒れ果てていましたが、現在では華僑などの援助によって沿海部を中心に復興を遂げています。

<備考>

 中国に伝来して以降、中国化したとされる仏教ですが、漢訳仏典については、その逆の現象をたどっており、初期の漢訳仏典の方が中国的要素を多分に含み[4]、当初は中国人に分かりやすくしています。例えば、「生き物」とするべき語訳を「人間」としたり、儒教に見られる人間中心主義の影響が見られます[5]。当時の中国人に人以外の生物が人と共に救済されるべきとした説は難しかったものとみられます。つまり仏教の神髄ともいえる教えを初期の布教者は避けていた傾向があり、後世になって仏典のインド化が進んだのです[6]。

 注4) 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 講談社文庫 11刷1997年(1刷1990年)
   ISBN 4-06-184784-8 p.322.
 注5) 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 p.323.
 注6) 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 p.325.


 本稿の主な出典はWikipedia です。


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