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2018年・東日本大震災
復旧実態調査(茨城県編)

北茨城市五浦海岸(六角堂1)


青山貞一・池田こみち 
環境総合研究所顧問
掲載月日:2018年7月28日 2020年3月11日第2次公開
 独立系メディア E-wave Tokyo
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 調査の内容と方法 北茨城市大津港 五浦海岸六角堂1 五浦海岸六角堂2
 茨城・福島県境


 最初は五浦海岸(六角堂)の復旧調査と放射線量調査の結果である。 

◆北茨城市五浦海岸(六角堂)

 
大津港の次は、港の北西数100mにある五浦美術文化研究所の六角堂である


出典:グーグルマップ


 大震災直後に現地調査した時は、五浦海岸の六角堂は、完全に津波で流され基礎部分しかなくなり、岡倉天心の天心邸や庭園などは浸水しており、すべて閉鎖されていた。

 以下は五浦技術文化研究所内での津波浸水被害図である。中央に天心低が、右下に六角堂がある。


五浦技術文化研究所内での津波浸水被害図
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


北茨城市五浦にある六角堂 2014年3月31日撮影
出典:グーグルアース

 ※ 青山貞一・池田こみち 2011年末の<北茨城>六角堂と岡倉天心


◆六角堂
 茨城県北茨城市大津町五浦(いづら)にある六角形の建築物。明治時代に岡倉天心(岡倉覚三)が思索の場所として自ら設計したもので、茨城大学が管理する。「関東の松島」の異名を持つ景勝地・五浦海岸の中でも優れた景観を示すところに建つ。岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦の一部として国の登録記念物に登録されている。



 天心による六角堂は茨城大学美術文化研究所六角堂の名称で国の登録有形文化財に登録されていたが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う津波の直撃を受け、土台のみを残して姿を消した。2012年(平成24年)4月17日に完成式が行われ、再建された。

出典:Wikipedia

◆岡倉天心
 美術行政家・思想家。横浜生。本名は覚三。東大卒後、文部省に入り、美術教育・調査保存にあたる。明治17年フェノロサと鑑画会を結成、新日本画の開拓に努め、美術調査員としてともに渡欧。明治23年東美校校長(東京美術学校、現在の東京芸術大学)となり、帝国博物館理事等を兼任、この間美術誌「国華」を創刊。



 また日本青年絵画協会及びその後身である日本絵画協会を組織した。のち公職を退き、橋本雅邦・横山大観・菱田春草らと日本美術院を結成した。

 明治37年渡米し、ボストン美術館東洋部長に就任。また文展審査員・国宝保存会委員もつとめ、明治期美術の指導者としてばかりでなく、すぐれた国際感覚のうちに、日本及び東洋の文化の優秀性を内外に訴えた。著に『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』等がある。大正2年(1913)歿、50才。

出典:コトバンク

 今回は、茨城大学五浦美術文化研究所などの尽力により、六角堂がほぼ元通りに再建されていた。 また一部を除き和式の庭園や住宅、展示館なども見ることができた。


五浦美術文化研究所(通称、五浦六角堂)の入り口にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


五浦六角堂に残る津波被害の跡
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 以下は五浦海岸。左端に六角堂の一部が見える。


五浦海岸
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


五浦海岸六角堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

 六角堂及びその周辺での空間放射線量は いずれも0.07μSV/hであった。 


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 下は六角堂の概説。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 下は再建なった六角堂。


再建なった六角堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


再建なった六角堂の内部
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


つづく