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グアム島現地総合調査


参考・グアムの戦い4
日本vs米国・ Battle of Guam

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2019年1月24日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載

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 参考・グアムの戦い地図

日本軍総攻撃 


聖母マリア大聖堂の廃墟の前で記念撮影する第三海兵師団
の兵士。現存する大聖堂は1958年に再建されたもの。
Source: Wikimedia Commons

 アデラップ方面の歩兵第18連隊守る山地地域でも、相変わらずパラソル台と本田台は健闘していたが駿河台と日向台は突破されており、米軍は奥深くまで侵攻していました。

  日本軍のこの2日間での損害があまりに大きく、特に各部隊の指揮官の死傷率が高く70%の指揮官が死傷していると推定され、実際の兵員の損失以上に戦力の低下が著しかったといえます。 また火砲も90%が破壊されてる上に爆薬も底を尽いており、敵戦車に対抗する手段もなくなりつつあったのです。

 以上の状況を踏まえて下記の2案が提議された。

1、師団の全力をマンガン山に集結しアデラップ岬に向かって突撃し玉砕覚悟の最終決戦を挑む。

2、グアム島の北東部の密林地帯に撤退し、持久戦を行う。

 会議は紛糾しましたが、結局持久戦をおこなっても米軍のグアム島利用を止めることはできず、また日本軍らしい最後を飾ろうという意見に傾き、第31軍司令官小畑英良中将は7月24日に残存戦力による総攻撃を決意しました。25日未明の総攻撃を命令し、大本営に決別の電文を打電しました。

 その間も米軍の激しい攻撃は続き、日本軍が集結しているマンガン山に向かって戦車を伴った進撃をしてきましたが、パラソル台で米軍に痛撃を与えてきた石井中隊の対戦車肉弾攻撃や、残存野砲による直接照準の水平射撃で戦車数両を撃破しました。

 苦戦が続くグアム戦で連日に渡る勇戦敢闘を続けた石井中隊に対して、戦史叢書は「まさに国軍の真価を如実にしめした。」

 日没と共に日本軍の総攻撃が開始された。マンガン山から出撃した日本軍はアサン海岸に向けてまっしぐらに白兵突撃を行いました。 独立第10連隊長や、序盤で米軍に痛撃を与えた第18連隊第3大隊の行岡大隊長も率先し陣頭に立って突撃、突撃の前面にあった海兵第21連隊は、各所で日本軍の激しい白兵突撃に前線を突破され、海兵第21連隊第3大隊長は指揮所を占領され機密が漏れるのを恐れて、暗号機を土中に埋めています。

 また日本軍は物資集積所や野戦病院にも突入し、野戦病院では軍医やコックまでが手伝って負傷兵を連れて慌てて退却しています。また、海兵第9連隊第2大隊は7度にも渡って日本軍の突撃を受け、950名の日本軍をたおしたが、戦力が50%にまで落ち込んみました。

 後の25代海兵隊総司令となったロバート.E.クッシュマン(当時中佐、後に大将)の大隊は白兵突撃してくる日本軍相手に、激しい戦闘を繰り広げ600名の日本兵を斃しましたが、クッシュマンの大隊も62名の戦死者と179名負傷者を出しました。

 以上の様に日本軍の総攻撃は米軍に打撃は与えましたが、火砲も少なく弾薬も尽きた白兵戦突撃だけでは死傷者が増大するばかりであり、独立第10連隊長も行岡大隊長も壮烈な戦死を遂げ、25日中には総攻撃の勢いは減衰し、26日日中にほぼ終息しました。 総攻撃には、グアムから疎開が遅れた一般邦人男子数十名も志願の上で抜刀隊を編成し軍と運命を共にしています。

 21日から25日にかけて、オロテ半島と第一飛行場を海軍陸戦隊や戦車9連隊第1中隊と協力し死守してきた第38連隊第2大隊でしたが、激しい戦闘により、海軍諸部隊も含めた残存兵力が2,500名まで減少していました。

 一方で、米軍は攻めあぐねていたオロテ半島に対し、予備兵力であった第77歩兵師団の主力までを戦場に一気に注ぎ込み、第1臨時海兵旅団を主力に全力で半島最深部まで侵攻してきたため、奥城大隊長と須磨(オロテ)地区海軍陸戦隊楠本司令は、軍主力に呼応しての総攻撃を決意しました。

 第2大隊と海軍陸戦隊は、25日夜より降り出した豪雨を利用して夜襲をかけましたが、米軍は0時からのわずか2時間の間に26,000発の砲弾を日本軍に浴びせました。

 一方日本軍は武器弾薬も尽き、一部の兵員は熊手や杖や野球バットまで武器代わりに持って突撃しました。部隊は米軍陣地に突入するも、激しい集中砲火に奥城大隊長は重傷を負い自決し、突撃部隊も26日4時には壊滅しました。楠本司令も残存部隊を率いて突撃を敢行し27日に戦死しました。

 その後、1941年に日本軍に占領されたオロテ半島の旧米軍海兵隊宿舎を28日に奪還、29日には半島全体を占領し同日にレイモンド・スプルーアンス大将やホーランド・スミス中将ら米軍指揮官らが立ち合いの元で国旗掲揚式が行われました。

 米軍からすれば3年越しのリベンジを果たした事となりました。このオロテ半島を巡る攻防戦で日本軍は残存の2,500名のほとんどが戦死しましたが、米軍は戦死・行方不明153名、負傷者721名でした。


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