グアム島現地総合調査 参考・グアムの戦い6 日本vs米国・ Battle of Guam 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2019年1月24日公開 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
グアム島全体目次 グアムの戦い1 グアムの戦い2 グアムの戦い3 グアムの戦い4 グアムの戦い5 グアムの戦い6 参考・グアムの戦い地図 グアム戦の影響 整備されたグアム島の飛行場上空を飛行するB-29 Source: Wikimedia Commons グアムの占領を成し遂げた米軍は、皮肉にも日本軍が設営し、ほとんど戦力とはならなかった飛行場を整備し、サイパン島等とともに日本本土への戦略爆撃の拠点としました。 グアムやサイパンより飛び立ったB-29は、日本の多くの都市を灰燼に帰し、日本の継戦能力を奪っていったのです。 この飛行場は、後にグアム国際空港となり、今日においてもグアムの空の玄関となっています。 また、グアムは米国陸海軍の前線基地となり、この後のフィリピン・硫黄島・沖縄攻略で重要な役割を果たしています。 以上のようにグアム島を含むマリアナ諸島の喪失が、大戦の行方を決定づけたのです。 後に太平洋戦争終結後初の内閣総理大臣となる東久邇宮稔彦王は、この戦いの敗北で日本の敗北を察したといいます。 一方日本軍の方も、グアム戦などマリアナ諸島の戦いでの米軍上陸前に今までにない激しく効果的な艦砲射撃を浴び、陣地や兵員に甚大な損害を受けたこと、また、上陸後も水際撃滅策を軸とし堅牢な陣地構築を十分に行わず、突撃や夜襲を多用して早期に多くの戦力を失ってしまったといった教訓を大本営陸軍部の編纂した「戦訓特報」により全軍に通知しました。 この通知内容も十分とは言えなかったが、その戦訓を更に詳細に検証し、ペリリューの戦い・硫黄島の戦い・沖縄戦では徹底した陣地構築を行い、無用な突撃も禁止したことにより、米軍を大苦戦させています。 グアムでの戦いが終結した後、横井庄一伍長ら数名の日本兵が終戦を知らずにジャングルに潜伏し続けていました。1人生き残った横井伍長は1972年(昭和47年)にグアム島住民に発見され、保護された後に日本へ帰国しています。 グアム先住民チャモロ人の戦争被害について 昭和19年1月時点でグアム島には、先住民のチャモロ人24,000名(メキシコ・フィリピン・中国の混血を含む)、外国人33名、捕虜の米軍人家族113名と占領後に来島した人数も含めて一般邦人が455名居住していました。 島民の大多数を占めるチャモロ人の多くが親米的であり、日本占領下に物資不足や生活困窮が酷くなる中で、その傾向が強くなっています。またチャモロ人の子弟1,000名以上が米軍に従軍中という事も、チャモロ人の対日感情の悪化に大きく影響していました。 グアム島の防衛強化が進むにつれて、日本軍は陣地構築などにチャモロ人を多数を動員しています。一部協力的なチャモロ人もいましたが、多くは強制労働でした。 しかし米軍の上陸の可能性が高まると、日本軍はチャモロ人の殆どとなる20,000名を、グアム島南東部マネンガンの収容所を初めとした5か所の収容所に送り込んだのです。 収容所に収容されたチャモロ人は一部で、多くが自発的に山地に避難したという意見もあります。収容所に収容した目的は、チャモロ人の反乱防止や、機密保持のための隔離や、戦闘地域からの避難等色々言われていますが、日本軍の正式な意図は資料も残っておらず不明です。 収容所には食糧も?飲み水もまともになく、多くのチャモロ人が苦しめられましたが、結果的にこれら収容所が日米の激戦地と離れた場所にあった為、大多数のチャモロ人の命を救う事となったといえます。 それでも戦闘に巻き込まれて亡くなったチャモロ人は数千名に上っています。7月31日に米国第77歩兵師団の第307連隊が収容所の内の一つであるアンナン収容所を占領し、2,000名のチャモロ人を解放しました。マネンガンの収容所跡は現在平和公園となり、レリーフが設置されています。 米軍の侵攻が近づくと、夜になると島から発火信号が海上に向けて送られてたり、海岸に米国製のゴムボートが乗り捨てられているのを日本軍が発見し、島民が米軍へのスパイ行為を行っていると日本軍は疑いだしました。 神経過敏となっていた日本軍一部は、ウマタッタのメリソで、スパイ容疑をかけたチャモロ人多数を壕に入れて、手りゅう弾を投げ込み殺害するという事件を起こしています。 また、機密保持目的の虐殺事件も起こしており、その記念碑もグアム島に散在していますが、一説には日本軍に殺害されたチャモロ人は合計で700人と言われます。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4 参考・グアムの戦い地図につづく グアム島全体目次 |