回想録からひも解く 「平頂山」大虐殺の詳細(1) 出典:来原:百度百科(RockAkala投稿論文) 2007-12-24, 2015年1月26日 万人坑 (辽宁抚顺平顶山万人坑) 来原:百度百科(RockAkala投稿論文) 翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月18日 |
一万人の洞窟(遼寧省撫順市平頂山の一万人の洞窟)記念碑 総合メニュー へ (1) → (2) → (3) → (4) 本文 遼寧省撫順市の平頂山集団墓地に眠る死者の魂は、日本が中国を侵略した際に犯した凶悪な犯罪の証人である。 九・一八事件以降、日本の侵略者は東北地方の至る所で焼いたり殺したり略奪したりして犯罪を犯し、極めて残酷な植民地支配を行った。 平頂山の悲劇は、日本帝国主義の中国侵略の犯罪史における「三光」政策の産物である。 それは、日本の侵略者の野蛮な行為に対する鉄壁の証拠の山である。 当時の平頂山は、撫順市の南部、西オープンピットの南東、市から約4キロのところにあった。 もともとは小さな丘で、掘るのが簡単なので鉱山を埋めるために土を取っていたのだが、時間の経過とともに丘は掘り尽くされて荒れ地になってしまった。 その後、西露天掘り鉱山が東に拡張されたため、楊梅宝村や外子村の鉱夫の家の一部が取り壊されようとしていたので、この荒れ地を利用して、ここに来た貧しい鉱夫たちが定住して村を形成するための簡単な家を建てたのです。 もともと小さな丘を掘って平らにしたのがこの村の始まりで、それが「平頂山」という名前の由来です。 村には800軒以上の家と500世帯、約3,000人の人口があり、そのほとんどが鉱山労働者である。 1932年9月16日、日本軍の駐屯地や憲兵隊、撫順の鉱山防衛隊や警察署は、平頂山で罪のない村人3,000人以上を検挙し、凄惨な虐殺を行った。 生き生きとした平頂山村が一瞬にして地球上から消え去り、3000人以上の平和な村人の血肉が日本軍の虐殺の下で雲の上に飛び、骨の山となってその苦しみを地上に刻んだのである。 平頂山の悲劇の背景にあるもの 日本軍が平頂山の住民を虐殺した最大の理由は、抗日義勇軍が撫順を攻撃したことに対する報復だった。 1932年、東北抗日義勇軍は急速に成長し、義勇軍の活動は東北各地に広がっていった。 1932年5月、唐寿武の部下は通化を攻略し、8月には遼寧省臨時政府を樹立し、自衛軍を37路、6側軍、10万人近い兵力に拡大して、黄連、桑田、本渓、新濱、柳河、海龍など遼東の20以上の県の多数の町と一部の県鎮を支配した。 . 中でも、撫順、新浜あたりで活動していた李春雲の部の第1戦線軍は、総兵力1万人を超える遼寧人民自衛軍の主力部隊の一つだった。 1932年8月、唐十吾は通化で軍事会議を開き、日本軍に占領された遼寧東部の主要な中都市を主な目標として、九・一八事件の一周年を機に、本格的な対日攻撃を開始することを決めた。 義勇軍は、日本帝国主義者に大きなデモンストレーションを行い、中国人民が堕落した国の奴隷になることを厭わないという決意を示すために、この時期を選んで攻撃を実行したのである。 会談後、李春蘭は、SDA本部の統一的な配置に基づき、主力部隊を清遠、南山、英潘、銭津寨(撫順)などの場所に分けて攻撃させ、日本軍や偽物軍に対する大規模な反撃を開始したのである。 8月末には、撫順郊外のほとんどの地域が義勇軍の支配下に入り、8月31日には、李海峰と撫順県公安隊長もどきの邢龍久が反乱を起こした。 日本人将校の桂田と鳥貝を人質にとり、李春蘭の抗日自衛軍に入れた。 その後、桂田は途中で逃げ出し、鳥貝は処刑された。 この事件は、撫順の日本軍に打撃を与え、彼らをさらに緊張させた。 当時、撫順にいた日本当局のトップと主な指導者は、独立守備隊第2旅団第2戦隊長・川上清一、撫順憲兵分遣隊長・小川一郎、日本警察部長・前田信次、疑似撫順県日本人参事官・山下真直、原田啓成、疑似撫順県日本人指導官・立田銀太、撫順炭鉱副 長(撫順炭鉱副所長)・久保甫、疑似満州撫順県知事・夏毅である。 ※注)撫順炭鉱 …1937年市制施行。撫順炭鉱は1901年より中国人が採掘を開始したが,日露戦争後日本はロシアから利権を獲得し,満鉄の経営に移した。解放後の工業の発展は顕著で石炭,油母ケツ岩の採掘のほか発電,冶金機械,化学等の工場が建設された。… 日本の警察署長であるトン・シーシュン氏をはじめとする 9月初旬、抗日義勇軍が撫順を攻撃するという情報を得た日本軍は、守備隊は佐藤純孝ら13人の騎兵偵察隊を郊外に派遣して偵察させた。 10日には、激怒した川上誠一大尉が隊を率いて大東州村に行き、「賊を潰す悲壮な精神」と称して戦った。 その結果、村の400軒以上の家が焼失し、逃げ遅れた村人が何人も殺された。 これは、平頂山の悲劇であった。 ※注)本文中の帰属のない引用文はすべて撫順市博物館に保管されている。 撫順市博物館は1951年4月5日、撫順市は平頂山の犠牲者を追悼するために、平頂山に「平頂山殉教記念碑」を建てることを決定した。1970年の夏、平頂山の悲劇の遺跡の発掘が始まり、発掘された文化的遺物を保護するために敷地内にパビリオンが建てられた。1988年に平頂山大虐殺事件が国の重要な文化財保護ユニットとして発表され、2004年に平頂山大虐殺記念碑が100のレッドツーリズムの古典的な景勝地の全国ディレクトリにリストされた。百度百科 (2)へつづく |