第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6 A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂2 Chiesa di Nostra Signora del Rosario a Pompei 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェスヴィオ総合メニュー> ロザリオ聖母の巡礼聖堂1 ロザリオ聖母の巡礼聖堂2 ロザリオ聖母の巡礼聖堂3 ロザリオ聖母の巡礼聖堂4 ロザリオ聖母の巡礼聖堂5 ロザリオ聖母の巡礼聖堂6 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 アマルフィの位置 ポンペイの紋章 イタリア国旗 ◆ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂2(Pompei) 鐘楼から降りると、ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂では朝(午前)の礼拝(ミサ)が行われていました。 ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂の朝の礼拝(ミサ) この時は、まだ時間が早く、ミサの開始前で、市民の数が少なかったのですが、鐘楼を 見学した後に、再度教会内に入ると、以下の写真と動画にあるように多くの市民がいました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂の朝の礼拝(ミサ) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 以下はロザリオの聖母の巡礼聖堂の朝の礼拝(ミサ)に参加する池田こみち(一番手前のバックシャン)です。 ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂の朝の礼拝(ミサ) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 以下はポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂における朝の礼拝(ミサ)の貴重な動画です。パイプ・オルガンの音も綺麗に入っています。 動画撮影:青山貞一 Victor GZ-256E 2013-6-4 以下は、ポンペイのロザリオの聖母に捧げた巡礼聖堂の歴史です。 ◆巡礼聖堂の献堂者、バルトロ・ロンゴの概要 バルトロ・ロンゴ(1841~1926) 出典:ポンペイのロザリオの元后大聖堂 いつくしみセンター公式サイト ロザリオの聖母に捧げた巡礼聖堂は、バルトロ・ロンゴ(1841~1926)によって建設が進められ、1891年に献堂されました。 巡礼聖堂と付随する福祉施設は、何世紀にもわたり荒れ果てた谷間の町ポンペイにに新しい活力を与えたばかりではなく、ロザリオの祈りの普及に大きな役割を果たし、“ポンペイの聖母”と呼ばれるこの聖堂は、イタリアでも有数の聖母巡礼地となっています。 バルトロ・ロンゴは、大学時代、強権反対主義者や反カトリック主義者の影響を受け、悪魔教にも関係したことがありましたが、その時期に、鬱病にかかり、ある神父との出会いから、ロザリオ信仰をするようになり、彼の人生を大きく変えました。 後になって、法学部を卒業し弁護士となりますが、仕事を捨て、福祉に尽力を注ぎ、深く信仰の世界に入っていきました。彼が書き残した祈りの言葉は今でも多くの信者に唱えられています。ロザリオの聖母に捧げた巡礼聖堂にはルカ・ジョルダーノによる絵画も収められています。 ◆巡礼聖堂の献堂者、バルトロ・ロンゴの詳細 ・ 生い立ち 1841年、バルトロ・ロンゴは、イタリア南部ブリンディシ近郊の小さな町ラティアノの、裕福で敬虔なカトリックの家庭に生まれました。毎日家族と共にロザリオを祈るような子供でした。彼は法律家を目指してナポリ大学に入学しました。 ・ 悪魔崇拝の司祭からの回心 当時ナポリは恐ろしい霊的危機の下にありました。あらゆる種類の異教や悪魔崇拝がはびこっていたのです。 徐々に信仰から離れていたバルトロはこの種ものに免疫がなく、学生時代に影響を受け、悪魔崇拝の司祭になったばかりか、できる限りのことをして彼を回心させようとする家族のことをとても恥ずかしく思うようになっていました。 やがて悪魔崇拝が彼の心を苦しめるようになり、体調を崩したり、悪魔の幻を見たりしました。家族は良いゆるしの秘跡を受けるよう勧めました。 友人の勧めで会ったドミニコ会の聖なる司祭アルベルト・ラデンテ師は、彼にカトリック信仰を取り戻すのを助け、ロザリオの信心を大切にするよう励ましました。バルトロは奇跡のような回心をすると、1870年、ドミニコ会第3会員となり、それまでの教会に対する大きな罪の償いために生きようと決心しました。 病院で働いていた時、二人の深刻な病気を抱えた人に出会いました。彼らは神を深く愛しており、バルトロに「本当の幸せ」を教えてくれました。それは、キリストへの愛のゆえに、人生の困難を喜びのうちに受け入れる、ということでした。 ・ ロザリオを広め始める ある時彼は、教会に敵対した罪を神様は決してお赦しになるまいと、失望の罪に屈しかけました。その瞬間、神様からの霊感があり、「ロザリオの信心を広める者には必要とする助けを下さる」との聖母が聖ドミニコに約束されたのを思い出しました。 ある日彼は仕事でポンペイを訪れました。当時のポンペイは大変貧しく、識字率も低いうえに、迷信も強く残っていました。教会の教えも正しく学べずにいました。ショックを受け、彼は目に涙を浮かべてひれ伏すと、「天の元后よ、この地であなたのロザリオが勝利するのをご覧に入れるまでは、私はこの地を離れません!」と誓ったのです。 そこで1873年、ポンペイの荒廃している聖堂を建て直し、ロザリオの信心を広め始めました。この力強い信心業の祈り方を学ぶためのパンフレットを配りました。 また、ロザリオを祈るための祈りを教え、各家庭にロザリオの聖母のご絵とロザリオを配りました。聖母祭や聖母行列を主催したり、要理の勉強会を開いたりもしました。 貧しい子供たちのための学校を作り、貧困家庭向けの保育所、女子孤児院、若い人たちの働ける印刷所を作ったり、製本を学ぶ学校を設立したりしました。 またその当時、犯罪者の子供は犯罪者になるという迷信があったのですが、バルトロはそれに反対し、犯罪者の子供を受け入れる孤児院を作って十分な教育を受けさせ、子供たちが道徳的で、正しく振舞うことを認めさせることで、迷信が間違っていることを明らかにしたのです。 ・ ポンペイのロザリオの聖母 ロザリオの聖母バルトロは、聖堂にふさわしいロザリオの聖母のご絵を探し求めました。1875年、ある修道院で見つかって提供されたのは、虫食いの「ロザリオの聖母」のご絵でした。元々ラデンテ師が古道具屋で見つけて安値で買い受け、修道院に寄付したものでした。 その絵はお粗末なものでしたが、バルトロはそれを受け取り、修復のための寄付を募りました。ご絵は修復され、1965年の終わりに美しく出来上がりました。 バルトロがロザリオを広める事業に取り組み続けるうち、聖堂の会員がものすごく増え、ポンペイの聖母による多くの奇跡が起き始めました。癒しや、魂の回心が、このロザリオの聖母への奉献によって起きたのです。 ロザリオの聖母を讃えるより大きな聖堂を建てるのを援助すると人びとは約束しました。1876年、大きな聖堂の建築に取り掛かりました。1891年5月に献堂された後、1939年にさらに増築され、現在の「ポンペイのロザリオの元后大聖堂」となりました。 1906年、バルトロ夫妻はその教会をバチカンに捧げ、教皇直轄大聖堂となりました。 ・ バルトロ、列福される 1980年10月26日、バルトロ・ロンゴは教皇ヨハネ・パウロ2世により列福され、「ロザリオの使徒」となりました。(記念日:10月5日) 教皇ヨハネ・パウロ2世は、その使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』 で、度々バルトロ・ロンゴについて触れています。ご一読をお勧め致します。 出典:ポンペイのロザリオの元后大聖堂 いつくしみセンター公式サイト ロザリオ聖母の巡礼聖堂3につづく |