厳寒のロシア2大都市短訪 ツァールスコエ・セロー 歴史2 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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ロシア短訪・総目次に戻る ツァールスコエ・セロー 概要 歴史1 歴史2 ◆サンクトペテルブルグ市 サンクトペテルブルグ市の紋章 ◆ツァールスコエ・セロー ツァールスコエ・セローの文学的伝統は、アンナ・アフマートヴァやインノケンティー・アンネンスキーなどの偉大な詩人によって、20世紀まで続けられました。 ツァールスコエ・セローとサンクトペテルブルクの間には、ロシア初の鉄道が1837年に開業しており、プーシキン方面の列車のターミナルであるサンクトペテルブルクのヴィチェプスク駅(ベラルーシのヴィチェプスクに由来)は帝政時代はツァールスコエ・セロー駅(Царскосельский вокзал)と呼ばれていました。 ツァールスコエ・セロー駅。 Царское Село, Вокзал. Source: Wikimedia Commons ツァールスコエ・セロー駅。 Царское Село, Вокзал. Source: Wikimedia Commons By Unknown author - old postcard, Public Domain, Link ツァールスコエ・セロー駅の当初の設計図面。 Царское Село, Вокзал. Source: Wikimedia Commons By Волгунов И. И. - Альбом чертежей сооружений российских железных дорог,Public Domain, Link Inside emperor railway station in Pushkin town ツァールスコエ・セロー駅舎の内部 Source: Wikimedia Commons By Unknown author - old image, Public Domain, Link ツァールスコエ・セローのKolpinskaya通り。未知アーティスト水彩。1865年 Source: Wikimedia Commons 不明 - http://www.encspb.ru/image/2803995802/1, パブリック・ドメイン, リンクによる 1866年ごろのツァールスコエ・セローの生活空間のイメージ Source: Wikimedia Commons もっぱら鉄道ができたものの、町は19世紀の工業化によって町の美しさは次第に失われていきました。これについては、1917年に開設された政府のラジオ局の報道によっても伝えられています。 この年の春、ニコライ2世は彼のお気に入りの宮殿であるアレクサンドロフスキー宮殿に軟禁されました。 これはツァールスコエ・セローで水路です。1905年に使われなくなりましたが、ロシアで最初のまち全体に対する給水システムでした。 ツァールスコエ・セローで水路です。1905年に使われなくなりましたが、 ロシアで最初のまち全体に対する給水システムです。 Source: Wikimedia Commons Автор: Неизвестен - http://tsarselo.ru/yenciklopedija-carskogo-sela/stroitelstvo-carskogo-sela-gorodskoe -hozjaistvo/vodosnabzhenie-carskogo-sela-taickii-vodovod.html, Общественное достояние, Ссылка 20代世紀初頭ツァールスコエ・セローのBabolovsky宮殿。絵はがき Source: Wikimedia Commons 不明 - Scan of Postcard of 20s century, パブリック・ドメイン, リンクによる ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿の教会 Source: Wikimedia Commons 不明 - http://sobor-ekaterina.ru (direct link), パブリック・ドメイン, リンクによる 1918年、まちはBolsheviksからヂェーツコエ・セロー(Детское Село、子供の町の意)へと改められ、1937年にはアレクサンドル・プーシキンの死後100年を記念してプーシキン市(Пушкин)へと改められました。 展望台橋、プーシキン Source: Wikimedia Commons ツァールスコエ・セロー、プーシキン地区の展望台橋 国家芸術と建築の宮殿と庭園博物館 所蔵 Source: Wikimedia Commons 1941年9月17日、プーシキンのまちはドイツに占領され、有名な「琥珀の間」を含む多くの歴史的な遺跡や建築物が壊され略奪されました。 しかし、ソビエト赤軍は1944年1月24日にこの地を解放しました。戦争後、ツァールスコエ・セローの再興が始まり、エカテリーナ宮殿の多くの部屋が修復されたましが、教会やアレクサンドロフスキー宮殿に関しては、未だ進行中です。 アレクサンドロフスキー宮殿 Source: Wikimedia Commons
下はアレクサンドロフスキー宮殿です。 アレクサンドロフスキー宮殿 Source: Wikimedia Commons 以下は、2003年に発行されたツァールスコエ・セロー記念切手です。 2003年に発行されたツァールスコエ・セロー記念切手 Source: Wikimedia Commons 一方、以下はロシアのコインバンク - シリーズ、「ロシアの建築記念碑」、プーシキン(ツァールスコエ・セロー)XVIIIです。 Монета Банка России ? Серия: ≪Памятники архитектуры России≫, Город Пушкин (Царское Село) XVIII в Source: Wikimedia Commons 以下は、ツァールスコエ・セローでニコライ二世皇帝家族が過ごした最後の夏についての論考と写真ギャラリーです。 ※皇帝一家が離宮で過ごした最後の夏 ロシアNOW 2017-6 ロマノフ王朝の最後の皇帝、ニコライ二世は、ツァールスコエ・セロで最後の夏を過ごした後、皇后、皇太子、娘それひおつきの女性らとともに、シベリア西部のトボリスクに移され、最終的にニコライ二世以下すべてが銃殺されています。その模様についても、詳細に書かれています。 つづく エカテリーナ宮殿へ 総目次に戻る |