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<ロマノフ朝>
ロマノフ王朝 ロマノフ家 ロマノフ家の人々
ロマノフ帝国 エカテリーナ1世 エカテリーナ2世
◆サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)
サンクトペテルブルグ市紋章 ロシア帝国の大紋章(1882 ~1917年)
本稿では、エカテリーナとエカテリーナとは発音が異なるだけで同一のものとします。
◆エカテリーナ1世
エカテリーナ一世(Екатерина I Алексеевна, 1684年4月15日 - 1727年5月17日)は、以下のロマノフ王朝 ロシア帝国における歴代皇帝(インペラートル)にあるように、ロマノフ朝第2代のロシア皇帝(在位:1725年 - 1727年)で、初代皇帝ピョートル1世の妃です。
歴代当主(歴代ロシア皇帝, インペラートル) ムラサキの地に黄色字は女帝
歴代 |
皇帝 |
在位 |
備考 |
初代 |
ピョートル1世 |
1721年-1725年 |
ツァーリ即位は1682年。元老院と宗務院より、インペラートルとともに大帝(Великий)の称号も受ける。 |
第2代 |
エカチェリーナ1世 |
1725年-1727年 |
ピョートル1世の皇后。 |
第3代 |
ピョートル2世 |
1727年-1730年 |
ピョートル1世の孫、廃太子アレクセイの子。 |
第4代 |
アンナ |
1730年-1740年 |
ピョートル1世の異母兄イヴァン5世の子。クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムの未亡人。 |
第5代 |
イヴァン6世 |
1740年-1741年 |
イヴァン5世の曾孫。宮廷クーデターにより廃位。1764年に殺害。 |
第6代 |
エリザヴェータ |
1741年-1761年 |
ピョートル1世とエカチェリーナ1世の子。 |
第7代 |
ピョートル3世 |
1761年-1762年 |
エリザヴェータの甥。ホルシュタイン=ゴットルプ公。宮廷クーデターにより廃位、後に殺害される。 |
第8代 |
エカチェリーナ2世 |
1762年-1796年 |
ピョートル3世の皇后。プロイセンのアンハルト=ツェルプスト侯家出身。大帝の称号を受ける。 |
第9代 |
パーヴェル1世 |
1796年-1801年 |
ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子。宮廷クーデターにより殺害。 |
第10代 |
アレクサンドル1世 |
1801年-1825年 |
パーヴェル1世の子。 |
第11代 |
ニコライ1世 |
1825年-1855年 |
パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。 |
第12代 |
アレクサンドル2世 |
1855年-1881年 |
ニコライ1世の子。「人民の意志」派の爆弾テロにより暗殺される。 |
第13代 |
アレクサンドル3世 |
1881年-1894年 |
アレクサンドル2世の子。 |
第14代 |
ニコライ2世 |
1894年-1917年 |
アレクサンドル3世の子。二月革命により退位。1918年に家族とともに殺害される(ロマノフ家の銃殺)。 |
出典:Wikipediaなどを参考に青山貞一が作成
Source:Wikimedia Commons
By Jean-Marc Nattier - http://www.barmin-ekb.ru/?page=katalog&id=100065, Domena publiczna, Link
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生涯
エカテリーナはマルタという名のリヴォニアの農民の娘で、バルト・ドイツ人牧師の家に引き取られて家族同様に育てられ、ドイツ語を学びました。
1701年にスウェーデンの竜騎兵と結婚しましたが、当時はロシアとスウェーデンとの大北方戦争が続いており、リトアニアが戦場になると、彼女はロシア軍がマリーエンブルク(リヴォニア)を占領した際に捕虜となり、ロシア人将軍ボリス・シェレメーテフの家に連れてこられました。
しかし立場は召使だったのか妾だったのか判然としていません。女奴隷から女帝にのぼったと言われるのはこの出自のためですが、上記のように、元々は無学卑賤の身分というわけではありません。捕らえられてからは正教に改宗し、名もエカテリーナ・アレクセーエヴナと改めています。
※エルミタージュ美術館を説明してくれ
た女性解説者は洗濯屋の女などと
も言っていました。
父称アレクセーエヴナはピョートル1世の長男で代父のアレクセイによるとする説があります。その後、将軍アレクサンドル・メーンシコフの家に引き取られ(ここでも使用人か妾かはっきりしない)、メーンシコフからピョートル1世に献上されました。
ピョートル1世は1689年に最初の妻エヴドキヤ・ロプーヒナと結婚して長男アレクセイも生れていましたが、1698年に妻を修道院に幽閉しました。ピョートル1世はエカテリーナを大変気に入り、1707年にワルシャワ近郊で秘密結婚しました。
ピョートル1世の隠し妻となったエカテリーナはがっしりした体格の、健康で快活な女性で、ピョートル1世の怒りの発作をうまくなだめることができたと言われています。
1712年にサンクトペテルブルクで正式に結婚し、皇后となりました。2人の間には12人もの子供が生まれていますが、成人したのは娘2人だけでした。エカテリーナは中年になると深酒のため容色も衰え、ピョートル1世に疎まれることも多くなったといわれています。
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Catherine I of Russia by Nattier |
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S
ource:Wikimedia Commons
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1725年に入ってピョートル1世の死期が近づくと、有力大貴族はピョートル1世の長男アレクセイの子ピョートル・アレクセーエヴィチを後継に推し、新興勢力は皇后エカテリーナを推して対立しした。
同年1月28日早朝、サンクトペテルブルクでピョートル1世が死ぬと、皇后側に就いた近衛部隊が元老院を押さえ、皇后は同日中にエカテリーナ1世として即位しました。
こうして卑賤な生まれのリヴォニア農民の娘がロシア史上最初の女帝となりましたが、メーンシコフが牛耳る最高枢密院に実権を握られた傀儡の皇帝に過ぎなかったといえます。ただし、修道女となっていたピョートル1世の先妻エヴドキヤをシュリッセリブルク要塞の独房に監禁して、復讐心を満たしたりしています。
エカテリーナ1世の治世は2年あまり、1726年に神聖ローマ皇帝カール6世と同盟を結んだ程度で、目立った実績はないものの、ピョートル1世の改革を続行する形で国政は進みましだ。エカテリーナ1世は婚約者に先立たれた娘エリザヴェータに跡を継がせたいと考えていましたが、貴族たちの認めるところとならず、1727年5月6日に女帝が死ぬと、ピョートル・アレクセーエヴィチがピョートル2世として即位しました。
エカテリーナ1世 出典:Wikimedia Commons
ジャン=マルク・ナティエ - http://www.barmin-ekb.ru/?page=katalog&id=100065, パブリック・ドメイン, リンクによる
子女
・アンナ・ペトロヴナ(1708年‐1728年)…シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公カール・フリードリヒと結婚し、一人息子が1763年(ユリウス暦1762年)にピョートル3世となりました。
・エリザヴェータ・ペトロヴナ(1709年‐1763年/ユリウス暦1762年)…1741年にロシア皇帝となりました。
◆エカテリーナ(1世)(1684―1727)とは
Екатерина Алексеевна Ekaterina Alekseevna
ロシアの女帝(在位1725~27)。英語ではキャサリンCatherine。リトアニア農民の娘として生まれました。北方戦争中マリエンブルクでロシア軍に捕らえられ、すぐにピョートル1世(大帝)のよき伴侶となり、1724年に正式に皇后となりました。ピョートルの死後、近衛兵に推されて帝位につきました。
国政をみず、実権はメンシコフ公に帰しました。翌年、メンシコフの専横を嫌った他の重臣たちは枢密院をつくり、これにより帝権を制約しました。
エカテリーナ1世はピョートル1世の遺志を継いでロシア科学アカデミーを創設しました(1725)。彼女はその死(1727年5月6日)の直前、遺言で帝位にピョートル1世の孫ピョートル2世を指名しましたた。[伊藤幸男]
出典:日本大百科全書(ニッポニカ) |
つづく |