厳寒の2大ロシア都市短訪 ロマノフ王朝 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロシア短訪・総目次に戻る <ロマノフ朝> ロマノフ王朝 ロマノフ家 ロマノフ家の人々 ロマノフ帝国 エカテリーナ1世 エカテリーナ2世 ◆サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg) サンクトペテルブルグ市紋章 ロシア帝国の大紋章(1882 ~1917年) ◆ロマノフ王朝の幕開け ロマノフ王朝はミハイル・ロマノフ(1596~1645)を創始者としますが、ロマノフ家の起源はよくわかっておらず、一説にはドイツ系ともされています。 モンゴル帝国を継承したモスクワ大公国(リューリク王朝)の統治下では下級貴族でしたが、一族の中のロマン・ユーリエヴィッチの娘、アナスタシアが大公イヴァン4世(雷帝、1530~1584)の第一婦人として迎えられたことで、一気に有力貴族となりました。 イヴァン雷帝の死後まもなくしてリューリック王朝が断絶すると、大公国は動乱の時代に入りました。1613年、ポーランドからモスクワを奪還した功績とアナスタシアの血縁であることが評価され、当時わずか16歳の少年であったミハイル・ロマノフが有力貴族の推挙を受けてツァーリ(皇帝・君主)として即位しました。 ここにロマノフ王朝が幕を開けます。ミハイルは在位中、モスクワ総主教を務める父のフィラレートや、大商人のストロガノフ家から後押しを受けて国内の安定に努めました。 王朝の専制体制が確立したのは、ミハイルの息子アレクセイの時代です(在位1645~1676)。 官僚制度の整備と徴税・徴兵の強化がなされました。それと同時に、農民の移動の自由を奪う農奴制の立法化もみられました。この一連の中央集権化に反発したのが南部のコサックたちです。なかでも、その首領ステンカ・ラージンによる反乱は3年も続きましたが、アレクセイは鎮圧に成功します。また、宗教界においても上からの改革を断行し、ロシア正教をツァーリの統制下で国教として保護する方針が固められました。 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 ◆ロマノフ王朝 Romanovian Dynasty ロマノフ朝(1613年 - 1917年)は、1613年から1917年までロシアに君臨したロシアの歴史上最後の王朝です。 1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位して成立しました。その後、1721年にピョートル1世がインペラトールを名乗り体制をロシア帝国に改め西欧化を推進し、1917年にロシア革命で滅亡しました。 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 政体はロシア・ツァーリ国とロシア帝国に分かれ、首都はモスクワからサンクトペテルブルク(ペトログラード)に遷っています。また王家はロマノフ家からドイツ貴族のホルシュタイン=ゴットルプ家に男系が移っており、ピョートル3世以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝と呼ぶのが正しいとされています。 1913年に「ロマノフ王朝300年祭」が挙行されるなど、ミハイル・ロマノフからニコライ2世まで連綿とつづきます。 歴史 創始 リューリク朝は1598年1月、フョードル1世の死で断絶しました。以後、ロシアでは皇位をめぐる動乱期に入り、その中で16世紀末のフョードル・ニキーチチ・ロマノフの代にロマノフ家が台頭して動乱期を制し、その息子であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴されて初代ツァーリに即位しました。 ロマノフ家はリューリク朝と直接の血縁関係はありませんが、イヴァン4世の第1夫人がロマノフ家出身であるという縁戚です。こうして、ここに300年続くロマノフ朝が始まりました。 ピョートル大帝まで ミハイルとその息子であるアレクセイの時代は対外戦争と国内戦争の2つに悩まされながらも、帝政の基盤固めと西洋化が進められました。アレクセイの末子で専制君主として君臨したピョートル1世(ピョートル大帝)の時代にロシアは西洋化・近代化を急速に押し進めてヨーロッパの列強に加わり、その後勢力を拡大してヨーロッパから沿海州までを支配し、帝政の基礎はこの時代に安定しました。 ロマノフ朝の男系断絶と世襲の危機 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家の紋章。 左側のグリフォンの紋章がロマノフ家の紋章。 1725年のピョートル大帝の死後、ロマノフ朝は常に継承問題に悩まされました。大帝の男子はこの時点で早世しており、残っていたのは大帝が殺害した皇太子の子・ピョートル2世のみでした。このピョートル2世は1730年に男子を残さずに早世し、この時点でロマノフ家の男系の嫡流は断絶したのです。 ピョートル2世の死後、傍系のアンナが継ぐも彼女にも子は無く、1740年には遂に姪の息子でわずか生後2ヶ月のイヴァン6世に跡を継がせました。しかし嫡流のピョートル大帝系のエリザヴェータによるクーデターが起こり、イヴァン6世は廃され、エリザヴェータが女帝として即位しました。 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 しかし、彼女にも子が無く1762年に死去。甥のピョートル3世が跡を継ぐが、宮廷革命でドイツ人の皇后・エカチェリーナ2世が即位しました。なお、ホルシュタイン=ゴットルプ家からピョートル3世を皇帝として迎えた時点で、以後はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝と呼ぶのが史実的には正しいといえます。 なお、この過程でロマノフ家にはドイツ系の血が濃厚となりました。 エカチェリーナ2世からアレクサンドル1世 エカチェリーナ2世は積極的な対外進出を推し進める一方、様々な行政改革と近代化を行い、帝政の全盛期を現出しました。1796年の女帝の死後は息子のパーヴェル1世が跡を継ぎましだが、彼の父はピョートル3世ではなく(公式にはピョートル3世の息子とされている)愛人セルゲイ・サルトゥイコフ伯爵の息子ともされており、仮にそうなる場合はロマノフ家が断絶したと解釈することもできます。 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 青山貞一・池田こみち:「美の極致」、極寒のロシア2大都市を往く 2017-2 パーヴェル1世は女帝の政策を否定し、世襲で混乱するロマノフ家を収束するために1797年に帝位継承法を発布し、以後は男系の長男が皇位を継承することが定められました。しかし1801年にパーヴェル1世は部下のクーデターで殺害されます。 パーヴェル1世の長男・アレクサンドル1世は祖母の政策を受け継ぎ君主権強化と近代化を推し進めました。1812年にはフランスのナポレオン・ボナパルトの侵攻を受けますが、巧みなゲリラ戦を繰り広げてフランス軍を撃退し、東欧最大の強国としての地位を確立しました。さらにポーランドを再分割し、フィンランド大公国を建国して、ウィーン会議において神聖同盟(五国同盟)を提唱するなどヨーロッパに対する影響力も高めました。 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 ※伝説の人 アレクサンドル1世 2017年8月24日 オレグ・エゴロフ、ロシアNOW 革命の前夜 1825年にアレクサンドル1世が死去しました。彼の子は全て夭折していたため、弟のニコライ1世が継ぎました。すると立憲君主制を求めてデカブリストの乱が起こります。ニコライ1世はこれを厳しく弾圧し、以後皇帝は極端すぎる保守・絶対政治を行いました。 ニコライ1世も近代化と積極的な対外進出を目指しましたが、志半ばで1855年に死去しました。跡を継いだアレクサンドル2世は近代化の妨げとなっていた農奴制を解放(農奴解放令)して近代化を進めるも、ポーランドでの反乱や後継者の早世で失意に陥り、最期は1881年に没落した貴族階級のポーランド人で人民の意志党員イグナツィ・フリニェヴィエツキ(英語版)によるテロで暗殺されました。 暗殺事件後に跡を継いだアレクサンドル3世は、保守政治はなおも続けるも急速な工業化を推進してロシアの近代化を軌道に乗せました。 1894年に跡を継いだニコライ2世は歴代のような資質に欠けていた(よき家庭人でしたが)。日露戦争では日本に敗れ、この戦争中に起こったロシア第一革命で絶対君主制から立憲君主制へ移行することを余儀なくされました。 しかし立憲政治は名ばかりで実態が伴わず、貴族や地主らによる保守政治がなおも続いでいました。その中で行われたピョートル・ストルイピンの反動政治はロマノフ朝から知識人や国民を離反させ、反体制グループが台頭する一端を成しました。1914年からは第一次世界大戦に参加し、それにより国民生活はますます困窮します。そして1917年、ロシア革命で君主制そのものが打倒されてロマノフ朝は崩壊しました。 写真の説明 1913年に盛大に祝われたロマノフ王朝300年祭。この4年後にロマノフ朝は滅亡します。この式典からも当時の人々が「ロマノフ家とホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家」、「ロシア・ツァーリ国とロシア帝国」の区別をしていないことがうかがえます。 Source:Wikimedia Commons De Jongh Frères, Neuilly-sur-Seine - はがき http://www.bonhams.com/auctions/18991/lot/156/ (direct link). Source for date as 1887 - http://forum-samojedhunden.18048.n3.nabble.com/file/n103532/Tsaren%2Bo%2Bsamojed.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる 2007年の世論調査でロマノフ朝の復活に賛成の国民が37%、反対が7%と君主制支持が多くなってきています。それはロシアの深刻な格差社会が原因であるともいわれています。 外交 ロマノフ朝では歴代皇帝の政策によって外交政策は変更されました。初代のミハイルはポーランド王国と紛争を起こすも、当時のロシアの国力が微弱だったことから押され続けました。また、タタールの侵攻を受けて南部国境の守備を固めました。第2代のアレクセイもポーランドと13年戦争を起こし、同時にスウェーデンとも敵対しています。 アレクセイの末子・ピョートル大帝は積極的な対外進出を行ない、西欧列強と友好関係を築く一方、大北方戦争でスウェーデンを破ってエストニア・リヴォニアなど多くの領土を獲得しました。 一方でロシア東部にも進出してカムチャッカ半島や千島などに領土を拡大しました。ピョートル大帝の死後、ピョートル3世まで歴代皇帝は西欧列強の戦争(フランス王国との戦争、オーストリア継承戦争、7年戦争)に巻き込まれあるいは介入しました。 エカチェリーナ2世の時代はプロイセンなど西欧の新興列強国と友好関係を結び、南下政策を進めてオスマン帝国と交戦しました。しかし母帝の政策に反対するパーヴェル1世は南下政策を中止し、イギリスやフランスと敵対しました。このイギリス敵対がパーヴェルの暗殺を招きました。 アレクサンドルはナポレオンの遠征軍を撃退し、欧州の中心たる大国として確固たる地位を築きました。ニコライ1世は祖母・エカチェリーナ女帝の南下政策を復活させてオスマン帝国と交戦(クリミア戦争)しましたが、英仏伊がオスマン帝国に味方したため敗北しました。ただし、アレクサンドル2世の時代に露土戦争でオスマン帝国に勝利し西アジアに勢力を拡大します。 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 しかし、クリミア戦争敗北後のロシアは東アジアへの勢力拡張に積極的になり、アロー戦争では英仏に味方して清とアイグン条約を締結しアムール川一帯など大規模な領土を獲得しました。日本とも江戸幕府と日露和親条約を締結して国交を結んでいます。 アレクサンドル3世は工業化など国内政策を重点に置き、三帝協商を破棄して英仏と結びました。一方で清とも1893年に条約を結び、領土の一部を獲得しました。 しかし、ニコライ2世の時代に日清戦争、日露戦争により日本の進出が強まるとロシアの東アジア南下政策は頓挫し、バルカン半島など東欧進出に積極的になり、第一次世界大戦に巻き込まれる一因を成したのです。 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展 出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展
官制・経済 ロシア皇帝の権力は絶大なものと思われがちですが、絶大なものとなったのはエカチェリーナ2世の時代であり、それまで皇位継承は貴族や軍による宮廷革命によって左右されました。またエカチェリーナ2世までの歴代皇帝によるロシア経済の発展と宮廷文化の成熟、近代化が皇帝の威信を高める一因となっています。 ロシアの近代化はピョートル大帝期の時代に推進されましたが、これはあまりに急進的で国内でも皇太子や貴族が反対するなどしました。あまりに急進すぎて広大な領土を領するロシアでは人材の育成が追いつかず、経済の停滞を招いたのです。 エカチェリーナ2世以来、歴代皇帝は農奴制が国内経済と近代化の停滞を招いていたことを見抜いており、農奴を解放しようとしました。しかし皇帝権は貴族の支持があって成立しており、農奴を解放することで貴族の反発を受けることを恐れて廃止は女帝のひ孫であるアレクサンドル2世時代まで待たざるを得なかったのです。 そのアレクサンドル2世の農奴解放は不完全なもので、広大な領土を持つロシアでは改革が追いつかず、これがロシア革命を成す一因を成りました。 歴代当主(歴代ロシア皇帝, インペラートル) ムラサキの地に黄色字は女帝
つづく |