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厳寒のロシア2大都市短訪
 

血の上の救世主教会
 
歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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 ・血の上の救世主教会
  概要  歴史  建築  内装  イコン


サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)
  サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群

    
  
歴史

 ロシア皇帝アレクサンドル2世は、「解放皇帝」と呼ばれ、農奴解放を初めとする「大改革」を行いましたが、次第に反動化して行きました。同時にナロードニキ運動の急進化に伴い、ナロードニキの一部はニヒリズム、テロリズムに走り、1881年3月1日ついに皇帝もテロの標的となって斃れました。

歴代ロシア皇帝, インペラートル) 11代から14代まで
歴代 皇帝 在位 備考
第11代 ニコライ1世 1825年-1855年 パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。
第12代 アレクサンドル2世 1855年-1881年 ニコライ1世の子。「人民の意志」派の爆弾テロ(ロシア語版)により暗殺される。
第13代 アレクサンドル3世 1881年-1894年 アレクサンドル2世の子。
第14代 ニコライ2世 1894年-1917年 アレクサンドル3世の子。二月革命により退位。1918年に家族とともに殺害される(ロマノフ家の銃殺)。
出典:Wikipediaなどから青山が作成

 行幸先から帰る皇帝の乗った御料車が運河に沿って通る中、女性革命家ソフィア・ペロフスカヤによって指揮された「人民の意志」のテロリストは皇帝を狙って手榴弾を投げました。

 手榴弾は2人のコサック衛兵を負傷させましたが、皇帝は無事でした。しかし現場を見るために御料車を降りた皇帝の足下に別のテロリストが爆弾を転がして爆発させ、瀕死の重傷を負った皇帝は担ぎ込まれた冬宮で一時間後に崩御しました。


アレクサンドル2世
Source:Wikimedia Commons
オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアHephaestosさん - en.wikipedia からコモンズに移動されました。, パブリック・ドメイン, リンクによる


 教会の建立は、アレクサンドル2世の跡を継いだアレクサンドル3世によって先帝を弔うために行われました。

 教会はグリボエードフ運河の河畔で、アレクサンドル2世終焉の地に建設されました。この地はグリボエードフ運河がモイカ川(Moika)から分流する地点にあり、さらにモイカ川がフォンタンカ川(Fontanka)から分流する地点にも比較的近くなっています。

  建設資金は、帝室であるロマノフ家のほか、広く一般の献金によってまかなわれました。工事は1883年に着工されましたがアレクサンドル3世在位中には完成せず、教会の完成を見たのは次のニコライ2世の治世に入って13年目の1907年です。


サンクトペテルブルク、グリボエードフ運河堤防の隣にある
血の上の救世主教会
Source: Wikimedia Commons



サンクトペテルブルクのセカンドガーデンブリッジ付近の
モイカ川の河畔から見てる血の上の救世主教会
Source: Wikimedia Commons
Fumihiko Ueno, CC 表示 3.0, リンクによる


ロシア革命

 ロシア革命による社会主義体制は、教会に大打撃を与えました。教会はソビエト政権によって略奪され、また。また教会内部も損害を被りました。ソ連政府の指令で1930年代初期に教会は閉鎖されました。第二次世界大戦中は野菜倉庫として使われています。

 人々は教会を「ジャガイモの上の教会」「ジャガイモの救世主」と冷笑的に呼んでいました。教会は他の建築物同様、ナチスドイツによるレニングラード包囲戦で損害を被っています。さらに戦後は近くのオペラ劇場のための倉庫として使用されていまた。


ロシアの切手に描かれた地の上の救世主教会
Source:Wikimedia Commons
Автор: Почта России - http://filtorg.ru/, Общественное достояние, Ссылка


ソ連崩壊後、現在

 1970年7月、血の救世主教会の管理権は聖イサーク大聖堂(同聖堂も、この時点では、公共博物館として使用されていた)に譲渡されました。

 聖イサク大聖堂の収入は血の上の救世主教会の復旧へ集約されて行きました。27年に渡る修復工事を終え、1997年8月血の上の救世主教会は、およそ60年ぶりに一般公開されました。

 しかし、血の上の救世主教会は、ロシア革命以前から公的な礼拝としてではなく暗殺されたアレクサンドル2世を慰霊していたロマノフ家の施設であったという理由で正教会の大聖堂としての完全な復活はなされず、公的な奉神礼は殆ど行われる事がなく、麗々しいモザイク博物館として再開することとなりました。

 但し、聖堂の性格から正教会の永眠者のための祈りであるパニヒダは稀に行われています。現在サンクトペテルブルクの主な観光名所のうちのひとつとなり、多くの人々が参観に訪れるようになっています。


1883~1908。 ロシアの切手、13.00ルーブル、2012年7月17日
ロシアのサンクトペテルブルクにある血の上の救世主教会が描かれています。 建築家Alfred ParlandとArchimandrite Ignatius(Malyshev)の設計(1811-1897)。
Source:Wikimedia Commons


 下は血の上の救世主教会のライトアップされた夜景です。


血の上の救世主教会のライトアップされた血の上の救世主教会の夜景
Source:Wikimedia Commons



運河の先にある血の上の救世主教会のライトアップされた
血の上の救世主教会の夜景
Source:Wikimedia Commons


つづく