厳寒のロシア2大都市短訪 聖イサク大聖堂 1818 - 1858 歴史 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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ロシア短訪・総目次に戻る ・聖イサク大聖堂 概要 歴史 外装・外観 ドーム 建築設計 建築技術 内装 イコン 展望台 ◆サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg) サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群 次に聖イサク大聖堂の歴史について紹介します。 ◆聖イサク大聖堂の歴史 聖イサク広場に建てられたこの教会は、皇帝アレクサンダー1世の命により、ヴィンセント・ブレンナによるそれ以前の建物に替わって建てられました。その後、この場所には5代にわたり聖イサク寺院が存在しています。
特別に指名された審査委員が複数のデザインを審査した中には、ナポレオンお抱えの設計者シャルル・ペルシエールのアトリエで学んだ、フランス生まれの建築家、アウグスト・デ・モンフェランド(1786年~1858年)のものが含まれていました。 モンフェランドの設計は、その4つの同じような傾斜の8本の円柱を持つ柱廊(Octastyle Porticos)が無味乾燥で退屈な調子であるとして、何人かの審査委員から批判されました。 また、その設計は、巨大な面をもっているにもかかわらず、教会の建物はずんぐりした感じに見えて、それほど印象的ではないことも指摘されました。 委員会のメンバーには、著名なロシアの建築家もいましたが、古く不安定な土台の上に新しい巨大な建物を建てる必要性について特に懸念を示していました。 皇帝は、重厚な帝国様式の建築様式を好んでいたのですが、モンフェランの嗜好が出たことにより、(デザイン間で生じた)争いの解決に踏み込まなければなりませんでした。 この大聖堂の建設には、モンフェランドの指示のもと、1818年から1858年の40年を要しました。建築を安全な物とするため、サンクトペテルブルクのフェンランド(沼地)に2万5千本の杭を打ち込むことで、大聖堂の基礎が強化されました。 柱廊式玄関の巨大な柱を建てるために、革新的な方法が編み出されました。 大聖堂の建設コストは、100万金ルーブルという当時では信じられない金額にまで膨らみました。 ソ連時代、この建物は宗教的な虚飾を剥奪されました。 1931年、ソビエト時代の大聖堂は、宗教と無神論の歴史博物館に取って代わり、鳩の彫刻は取り除かれ、フーコー振り子に置き換えられました。 1931年4月12日、フーコーの振り子が最初に市民にデモンストレーションとして公開され、コペルニクスの理論が視覚化されました。 1937年、博物館は大聖堂の博物館に変わり、旧コレクションは宗教史博物館(カザン大聖堂に位置しています)に移されました。 第二次世界大戦の間、敵の戦闘機から目立たないように教会のドームは灰色のペンキで塗られました。その天井には、測地線の交点が配置され、ドイツの砲兵砲の位置を決定するために使われていました。 下の写真は独ソ戦におけるレニングラード包囲戦の最中に撮影されたものです。兵士が武器を運ぶ背後に聖イサク大聖堂が見えます。 レニングラードの包囲の中の聖イサク大聖堂 Source:Wikimedia Commos Автор: Участник:Dmitrij354 - Отсутствует информация об источнике!Для несвободных файлов (не соответствующих определению свободного произведения культуры) эта информация является обязательной для выполнения критериев добросовестного использования № 4 и 10.Вы можете попробовать найти подходящий источник через сервисы поиска по изображениям: TinEye или Google., Общественное достояние, Ссылка 下は1941年、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)の聖イサク大聖堂の周辺に配備されたレニングラード対空砲火で防衛中の兵士です。円柱(石柱)が見えるのが聖イサアク大聖堂です。 レニングラード対空砲火で防衛中の兵士です。円柱(石柱)が見えるのが聖イサアク大聖堂 Source:Wikimedia Commons By RIA Novosti archive, image #5634 / David Trahtenberg / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0, Link The fire of anti-aircraft guns deployed in the neighborhood of St. Isaac's cathedral during the defense of Leningrad (now called St. Petersburg, its pre-Soviet name) in 1941. 1941年、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)の聖イサク大聖堂の周辺に配備されたド対空砲火で防衛中の兵士。ドームと石柱が見えるのは聖イサク大聖堂 Source:Wikimedia Commons By Unknown author - "The Eastern Front in Photographs", John Erickson, Public Domain, Link ロシア革命後は、ソビエト政権の下で博物館となりました。他のサンクトペテルブルクの建造物同様、第二次世界大戦に危機に見舞われます。 独ソ戦におけるレニングラード包囲戦では、聖イサーク大聖堂の黄金のドームはドイツ軍にとって絶好の標的と成り得たため、ソ連側はドームを灰色に塗装し直しました。 ソ連崩壊後、大聖堂としての活動を再開し、祭日における奉神礼が行われています。 1992年、共産主義の崩壊とともに、博物館は廃止され、大聖堂での定例的な礼拝活動が再されましたが、左側の礼拝堂でのみ行われていました。 大聖堂の本堂(中央礼拝堂)は、祝祭日のみの礼拝時にのみ使用されます。 2017年1月10日、サンクトペテルブルグの市長であるゲオルギー・ポルタフチェンコは、大聖堂がロシア正教会に移管されたことを発表しました。 下は、 1991年9月3日ソ連国家銀行は≪gosudarstva500周年記念として、サンクトペテルブルクの聖イサアク大聖堂を刻印した50ルーブルの記念硬貨を発行しました。そのコインです。 1991年9月3日、ソ連国家銀行は≪gosudarstva500周年記念で発行された サンクトペテルブルクにある聖イサアク大聖堂を刻印した50ルーブルの記念硬貨 Source:Wikimedia Commons Автор: Государственный банк СССР - raritetus.ru, Общественное достояние, Ссылка 下は、1980年のソ連時代の聖イサアク大聖堂の1ルーブルの切手です。 1980年のソ連時代の聖イサアク大聖堂の1ルーブル切手 Source:Wikimedia Commons By USSR Post - Scanned 600 dpi by User Matsievsky from personal collection, Public Domain, Link 以下は、聖イサク聖聖堂を背景とした青山貞一(左)と池田こみち(右)です。右側には元老院の建物があります。 今回の私たちの旅行は2017年2月上旬に行ったこともあり、サンクトペテルブルグの年間気温で一番寒い時期に当たり、実際、連日マイナス17℃前後と厳寒状態にありました。 Наша поездка в Россию была в начале февраля 2017 года, поэтому это был самый холодный год в Санкт-Петербурге. Фактически, каждый день было очень холодно, около -17 ° C. Тейичи Аояма и Комичи Икеда на фоне Исаакиевского собора В Санкт-Петербурге, Россия Фото: Nikon Coolpix S9900 2017-2. 聖イサク大聖堂を背景に撮影した青山貞一、池田こみち ロシアのサンクトペテルブルグ市にて 撮影:Nikon Coolpix S9900 2017-2 つづく |