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◆サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)
サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群
◆エルミタージュ美術館 別館紹介
本館から別館へ 施設案内 フロア概要(2階~4階案内)
アレクサンダー・ワグナー作品等 ロシア・アートオブジェ作品等
風景:ゴッホ、セザンヌ、モネ 裸婦:ドガ、ルノワール
夫人:ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン 陶芸作品、版画:ピカソ
男性:セザンヌ、ドガ、マティス、ピカソ 静物:マチス、セザンヌ
風景:ピサロ、ゴッホ、ボナール等 夫人:裸婦・ドニ、マティス他多数
近代絵画・抽象画:マティス、ピカソ
参考 西洋画コレクション(大エルミタージュ)
先に掲載した写真ですが、この辺りで撮影したエルミタージュ美術館別の施設です。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
ここで一旦絵画から陶芸の展示になりました。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
◆パブロ・ピカソ
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso [?paβlo pi?kaso], 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家です。
Source:Wikimedia Commons
Argentina. Revista Vea y Lea - http://www.magicasruinas.com.ar/revistero/internacional/pintura-pablo-picasso.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる
ピカソはジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られていまる。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されています。
破天荒で奔放な知られざる私生活
ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかったようです。パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていました。
正式な妻以外にも何人かの愛人を作りました。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作りました。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエですが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グールという名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle
Humbert)と付き合いました。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA
JOLIE)」などの言葉を書き込みました。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなりました。
1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚しました。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えました。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれました。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなりました。
1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、密会を始めました。ピカソはオルガと離婚しようとしましたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止しました。ピカソとオルガは1935年に別居しましたが、結婚そのものは1955年にオルガが亡くなるまで続きました。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれました。
またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マール(en:Dora Maar )と愛人関係をもちました。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録しています。
1943年、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、1946年から同棲生活を始めました。そしてクロードとパロマ(en:Paloma
Picasso)が生まれました。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚しました。このことはピカソに大きな打撃を与えました。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われています。
しかしピカソはすぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロックを見つけました。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚しました。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われています。
当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけました。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していました。
このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演していまする。
ピカソが亡くなったとき、長男パウロとパウロの長男(ピカソの孫にあたる)パブリートはすでに死んでいました。パウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、パブリートは自殺でした。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられました。
ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺しています。フランソワーズ・ジローは、現在まで画家として旺盛な創作を続けています(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉があります。
出典:Wikipedia
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以下の三枚は、パブロ・ピカソの作品です。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
パブロ・ピカソ ジャクリーン・キャメロンのポートレート
Portrait de Jacqueline en Carmen (Bloch 1095) Piccaso
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
パブロ・ピカソ Dormeuse (Bloch 1083) Piccaso
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
パブロ・ピカソ 帽子をかぶる女性
Pablo Picasso - Woman with hat, 1921 Femme au chapeau 1921
つづく |