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  厳寒のロシア2大都市短訪

モスクワ市

歴史


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

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◆モスクワ市概要


モスクワ市の紋章

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モスクワの歴史

 訪問2大都市の概要の以下の表で示したように、モスクワは、1263年のモスクワ大公国以降、ロマノフ王朝によるロシア帝国を除き、ロシアの首都でした。とりわけ1918年のソビエト共和国、そして1992年以降の現在のロシアの首都です。

国名 時代区分 継続年 首都
モスクワ大公国 1263年 - モスクワ
ロシア・ツァーリ国 1547年 - 1564年 174 モスクワ
1564年 - 1581年 アレクサンドロフ
1581年 - 1712年 モスクワ
1712年 - 1721年 サンクトペテルブルグ
帝政ロシア(ロマノフ王朝) 1721年 - 1914年 196 サンクトペテルブルグ
1914年 - 1917年 ペテログラード
ロシア臨時政府 1917年 1未満 ペテログラード
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 1917年 -1922年 5 モスクワ(1918~)
ソビエト連邦(USSR) 1922年 - 1924年 95
1924年 - 1991年
ロシア 1992年 -
ペテログラードはサンクトペテルブルグの別称です。
出典:Wikipedia、各種文献を参考にして青山が作成

 このように、モスクワはロシア連邦の首都であるとともに、モスクワ市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもあります。

モスクワ大公国

 モスクハは1147年にキエフ大公国のユーリー・ドルゴルーキー(手長公)が会合を行った場所として言及されるのが最古の記録です。1156年に砦が築かれて以降、徐々に小都市化して行きます。1237年から1238年にかけてはモンゴル帝国軍によって灰燼と帰しました。

 1271年、ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーの子であるダニール・アレクサンドロヴィチが遺領としてモスクワを獲得し、モスクワ公国が成立しました。モスクワ公国はやがてイヴァン1世の代にキプチャク・ハン国の徴税人となったことから力をつけていき、モスクワ大公国となりました。


モスクワ大公国の旗             モスクワ大公国の紋章


モスクワ大公国の位置  
Source: Wikimedia Commons
Gabagool - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, リンクによる



1390年から1525年にかけてのロシア大公国の領土の変遷
Source: Wikimedia Commons
David Liuzzo, Attribution, リンクによる


 1382年にはキプチャク・ハン国のトクタミシュ・ハンによって占領されるなどはあったものの、モスクワ大公国は順調に力をつけていき、1480年にはイヴァン3世が大公国をハン国から完全に独立させ、「タタールのくびき」を終わらせることで、モスクワはロシア最大勢力の都となりました。

◆タタールの軛(タタールのくびき)

 タタールの軛またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を、ロシア側から表現した用語です。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念です。

出典:Wikipedia

 彼はウスペンスキー大聖堂やブラゴヴェシチェンスキー大聖堂やアルハンゲリスキー大聖堂を建設・再建し、クレムリンを壮麗なものとしました。クレムリンの前に赤の広場が建設されたのもこの時代です。

 1534年から1538年にはクレムリン北東のキタイ・ゴロドをクレムリンと同じ城壁で囲み、以後この地域は商工業地域として発展します。


1547年よりロシアツァーリの首都

 1561年にはイヴァン4世によって聖ワシリイ大聖堂が建設されました。1590年ごろにはクレムリンとキタイ・ゴロドの外側に城壁が築かれ、さらにその外側には土塁が築かれて、モスクワの町は大幅に拡張されました。

 新しい城壁の内側はベールイ・ゴロド(白い町)、土塁と城壁の間はゼムリャノイ・ゴロド(土の町)と呼ばれています。16世紀末には動乱時代となり、1610年には偽ドミトリー2世を擁したポーランド・リトアニア共和国軍がロシア・ポーランド戦争を起こしてモスクワを占領しましたが、商人のクジマ・ミーニンと公爵ドミトリー・ポジャルスキーを中心として組織された国民軍が1612年にモスクワを奪回し、翌1613年にはミハイル・ロマノフがツァーリに選出されてロマノフ朝が成立しました。


ロマノフ朝の大紋章

 ロマノフ朝時代は国土の拡張にともないモスクワも成長を続けましたが、ピョートル1世が1712年にロシア北西端のネヴァ川河口にサンクトペテルブルクを建設したことで首都の座を譲ります。しかしそれ以後も副首都の座を保ち続け、歴代のロシア皇帝はモスクワにて戴冠式を行うことを常としていました。

 古い貴族階級は遷都以後もモスクワに居住するものが多く、西欧の思想を取り入れる窓口となったサンクトペテルブルクに対し、モスクワは古いスラブ主義の思想の中心地となっています。

 1755年にはロシア最初の大学であるモスクワ大学が開校しました。このころ、ベールイ・ゴロドの城壁が撤去されて、その跡地にプリヴァール環状道路が建設されました。

 1812年にはナポレオンのモスクワ侵攻(祖国戦争)を受け、街は灰燼に帰しましたが、その後すぐに復興されました。


1784年のモスクワの地図
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンク



フョードル・アレクセーエフが描いた赤の広場(1802年)  
Source:Wikimedia Commons
フョードル・アレクセーエフ - http://lj.rossia.org/users/john_petrov/984791.html, パブリック・ドメイン, リンクによる



Moscow at about 1888  1888年ごろのモスクワ   
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link


 19世紀にはゼムリャノイ・ゴロドの土塁も撤去されて、その跡地はサドヴォエ環状道路となりました。1851年にはサンクトペテルブルクとの間に鉄道が開通し、その後も1862年にはニージニー・ノヴゴロド、1864年にはリャザン、1868年にはクルスク、1870年にはヤロスラヴリへの鉄道が相次いで開業し、ロシア中央部の商工業の中心としての地位は揺るぐことなく、農奴解放による労働力の流入や軽工業の発展もあいまって、19世紀末には人口は100万人を突破しました。


1547年よりソビエト連邦の首都

 ソビエトによって1918年に首都機能が移転され、ソビエト連邦とロシア・ソビエト社会主義共和国(現在のロシア連邦)の首都となります。大祖国戦争時には市の北西40kmの地点にまでドイツ軍が進出したものの、軍民一丸となった抵抗により陥落しなかったことは有名です。

 かつては冷戦による対立関係があったアメリカのワシントンと共に、モスクワは超大国の首都として二分し、スターリンはニューヨークの高層ビルに対抗意識を持ち、スターリン様式という建物を多く建築しています。ソ連崩壊後のロシア連邦においても引き続き首都であり、現在人口1000万を超えるロシアの政治経済の中心です。


つづく