厳寒のロシア2大都市短訪 赤の広場 歴史 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロシア短訪・総目次に戻る ・国立歴史博物館 クレムリンから赤の広場へ 国立歴史博物館 概要 ・赤の広場 赤の広場の歴史 現在の赤の広場 大祖国戦勝パレード レーニン廟 レーニン レーニン著作 ◆モスクワ市の赤の広場 ◆赤の広場 下の写真はさら聖ワシリー大聖堂に向って赤の広場を歩いて行ったところで撮影したものです。ほぼ中央にレーニン廟が見、その左側に聖ワシリー大聖堂が見えます。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2017-2 ◆赤の広場(Красная площадь、クラースナヤ・プローシシャチ)概要 赤の広場(Красная площадь、クラスナヤ・プローシシャチ)は、ロシアの首都モスクワの都心部にある広場です。 赤の広場は長さ695m、平均道幅130m、面積7万3,000m2と巨大な広場です。赤の広場の「赤」はソビエト連邦の「社会主義」に起因するものではなく、ロシア語に赤には「美しい」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものでした。 赤の広場は北西から南東に長く、南西側にはガガーリンやスターリン、片山潜などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟、北東側にはグム百貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱(たまねぎ)坊主屋根の聖ワシリー大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがあります。 歴史 1493年、モスクワ大公国の統治者イヴァン3世が、自らの居城であるクレムリン前の市街地を広場として整理させたのが赤の広場の起源とされています。 以後、商業地域のキタイゴロドと区別され、モスクワ大公国やロシア帝国(ロマノフ朝)の重要な国家行事がこの広場で行われるようになりました。
Proklamation des Kronungstages auf dem Roten Platz (Chromolithographie) 赤の広場、Kronungstagesの宣言 Source:Wikimedia Commons Автор: Тимм, Василий Фёдорович - Alexanders Coronation Book of 1856, Общественное достояние, Ссылка 当初「赤の広場」という名ではなく「トルグ広場」(トルグとは交易や商売を意味します)、広場の隅に立つ至聖三者聖堂(トロイツカヤ聖堂)の名から「至聖三者広場(トロイツカヤ広場)」、そして1571年のタタール人襲撃で起きた大火によるポジャール広場(火事広場)等の名の変遷を経ています。 16世紀には、広場には石畳もまだ敷かれておらず、当時の風景を再現した絵画では地面に板が敷かれた状態で描かれています。 「赤の広場(クラスナヤ広場)」と名付けられたのは、広場が整備された17世紀後半のことです。ロシア語名「クラスナヤ広場」の「クラスナヤ」は、ロシア語で「赤い」を意味しますが、古代スラヴ語では「美しい」を意味することから、赤の広場は「美しい広場」が原義に近いものとなっています。 ピョートル1世以降、ロシア帝国の首都はサンクトペテルブルクでしたが、ロシア革命後に成立したソ連の首都がモスクワに定められ、モスクワが首都に返り咲きます。モスクワのクレムリンに最高指導者が居住したため、赤の広場の重要性はさらにましました。 フョードル・アレクセーエフの描いた赤の広場(1802年) Source:Wikimedia Commons フョードル・アレクセーエフ - http://lj.rossia.org/users/john_petrov/984791.html, パブリック・ドメイン, リンクによる Red Square 1812: the flight of Napoleon ナポレオン戦争時の赤の広場 1812年 Source:Wikimedia Commons Viktor Mazurovsky (1859–1944) - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる ソ連時代には、革命記念日である毎年11月7日に、赤の広場で閲兵式(軍事パレード)が行われました。西側諸国のジャーナリストは、閲兵式のためにレーニン廟の上に並ぶソ連共産党指導者たちの並び順を見て、公式には明らかにされない共産党内の序列を確認し、権力闘争のゆくえを観測する「クレムリノロジー」の手法を採用していました。 1988年の赤の広場 Red Square 1988 Source:Wikimedia Commons コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Collardだと推定されます(著作権の主張に基づく) - コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、投稿者自身による作品だと推定されます(著作権の主張に基づく), パブリック・ドメイン, リンクによる 独ソ戦によるナチス・ドイツの侵攻でモスクワが危機にさらされた1941年のパレードでは、参加した軍隊がそのまま郊外の防衛最前線に直行する事態になりました。翌1945年には、対独戦勝記念の記念パレードが赤の広場で盛大に行われました。 Марки СССР. Всесоюзный день танкиста. 1948 г. 1948年発行、ソ連時代の赤の広場の記念切手。 By Post of USSR - http://collect.aukro.ua/1948g-den-tankistov-seriya-mnh-sostoyanie-i1875491804.html, Public Domain, Link Source:Wikimedia Commons Stamp of the Soviet Union, 1966, CPA 3422. 1966年発行、ソ連時代の赤の広場の記念切手 Source:Wikimedia Commons この軍事パレードは現在も大祖国戦争勝利の日の記念式典として毎年5月9日に実施されています。ソ連時代は、5月9日の「大祖国戦争勝利の日」記念軍事パレードと、11月7日の「10月革命記念日」の軍事パレードと、年2回、赤の広場で軍事パレードが行われていました。 A USSR stamp of 1975. Soviet paintings. K. Yuon. "A parade in the Red Square in Moscow on November 7, 1941." Lenin's Mausoleum. CFA #4486. 1941年にモスクワの赤の広場でパレード"レーニン廟」、1975年発行のソ連の絵画の記念切手「11月7日、Source:Wikimedia Commons
1987年5月28日、当時の西ドイツの青年マチアス・ルスト(19歳)が操縦するセスナ機がヘルシンキから飛び立ち、赤の広場に強行着陸する事件が起きました。 Stamp of USSR, 13th Definitive Issue. Spassky tower and Lenin's tomb, Red square, Moscow, 1988-1989 ソ連の切手、第13回決定的な問題。スパスキー塔とレーニンの墓、赤の広場、モスクワ、1988年から1989年より Source:Wikimedia Commons ソ連末期の1990年には、クレムリンとともにユネスコ(UNESCO)から世界遺産に文化遺産として指定され、翌1991年に登録されました(詳細は巻末参照)。赤の広場は、かつてレーニン廟とともに社会主義体制の聖地とされましたが、ソ連からロシアに政治体制が変わった現在は、商業的利用もなされています。 1988年公開のアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画「レッドブル」では、アメリカ映画として初の撮影許可が下りました。1993年5月に、山本寛斎が12万人を集めるファッションスペクタクルを開催しています。また2003年には、ポール・マッカートニーがコンサートを開いています。2004年には、日清食品のカップヌードルのCM(NO BORDER シリーズ)で、赤の広場が撮影場所となっています。 赤の広場は外国人の観光客も多く、モスクワで結婚式を挙げたロシア人カップルが、挙式後に訪れる定番地の一つとしても知られています。 下は聖ワシリイ大聖堂側から見る赤の広場です。はるか正面にはk0区立国立歴史博物館の二つの塔が見えます。 聖ワシリイ大聖堂側から見る赤の広場 Source:Wikimedia Commons Christophe Meneboeuf - Personal work.More of my photos on my photoblog: http://www.pixinn.net, CC 表示-継承 3.0, リンクによる つづく |