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   厳寒のロシア2大都市短訪
 

レーニン

ソ連革命まで

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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 ここでは、ロシア人にとって父親的な存在でもあるレーニンについて、その生涯の前半部分、すなわちソ連革命までを紹介します。文章の主な出典はWikipedia、写真の出典はWikimedia Commons です。

◆ウラジーミル・イリイチ・レーニン
 
(Владимир Ильич Ленин、1870年4月22日~ 1924年1月21日)


Vladimir Ilyich Lenin ウラジーミル・イリイチ・レーニン
Source:Wikimedia Commons
Wwamirhosseinww - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる


 ウラジーミル・イリイチ・レーニン(以降、レーニンと略)は、ロシアの革命家、政治家。優れた演説家として帝政ロシア内の革命勢力をまとめ上げ、世界で最初に成功した社会主義革命であるロシア革命において主導的な役割を果たしました。

 レーニンは史上初の社会主義国家であるソビエト連邦およびソ連共産党(ボリシェヴィキ)の初代指導者を務め、マルクス主義(共産主義)理論の研究と普及にも尽力し、後日、マルクス・レーニン主義という体系にまとめられています。本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Владимир Ильич Ульянов)です。


経歴

 1870年、ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)にて、アストラハン出身の物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフとドイツ・スウェーデン系ユダヤ人(ロシア正教に改宗していました)のマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクの間に生まれました。

 父方の祖父は解放農奴出身の仕立屋で民族的にはチュバシ系、曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)でした(曾祖母はロシア人)。この様に幾つもの民族や文化が混じるウリヤノフ家は帝政ロシアの慣習から見て「モルドヴィン人、カルムイク人、ユダヤ人、バルト・ドイツ人、スウェーデン人による混血」と定義されています。

 一族の慣わしにより、ウラジーミルはロシア正教会の洗礼を施されました。父イリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者(ドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師で、非ユークリッド幾何学の発見者の一人であるニコライ・ロバチェフスキーとは大学時代からの親友だった)でもあり、その学者としての活躍を皇帝に評価されて1882年に貴族に列せられるなど地元きっての名士となりました。

 当然、息子のレーニンも貴族に属していた訳ですが、父は貴族の地位に甘んじることなく、奴隷や貧困といった階級問題を息子達に伝える努力を惜しまなかったと言います。父の影響により生じたレーニンら子供達の価値観はより貧しい階級や異民族への同情と、階級制度への嫌悪を育む事になります。

 事実、1歳で早世した次女オルガ・イリイチナ・ウリヤノヴァ、19歳の若さで早世した三女オルガ・イリイチナ・ウリヤノヴァ(姉と同名)、生まれた年に亡くなった三男ニコライ・イリイチ・ウリヤノフの3人の子供達を除けば、レーニンを含むウリヤノフ兄弟姉妹5人全員が革命家の道を選んでいます。


青年時代

 高名な学者の子に相応しく兄弟は成績優秀でしたが、とりわけレーニンは神童の誉れが高かったと言われます。9歳の時にシムビルスク古典中高等学校に進学すると、全学科全学年を通じて首席で通して卒業時に金メダルを授与されています。

 その後、レーニンは父の母校であるカザン大学に入学しラテン語・ギリシャ語などの古典言語を専攻しましたが、同時期にレーニンの身に相次いで親族の不幸が襲いました。

 1886年1月に敬愛する父イリヤ・ウリヤノフが脳出血で倒れて亡くなり、翌年にはペテルブルク大学理学部に在籍していた兄のアレクサンドル・ウリヤノフが、ロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に加わった容疑で絞首刑にされたのです。同じく疑いが掛けられた姉のアンナ・ウリヤノヴァは追放の処分を受けました。


1887年のレーニン
Source:Wikimedia Commons
不明 author - This image has been reproduced widely, both online and in various published biographical studies of Lenin's life., パブリック・ドメイン, リンクによる


 レーニンは兄の受難に対する見解をほとんど史料に残していませんが、カザン大学時代にカール・マルクスの著作に触れ、彼の唱える理想に傾倒したことは、レーニンの反政府思想の大きな原動力となったと言えます。

 レーニンはカザン大学でも勢いを得ていた学生運動に参加し、1887年12月に暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けました。ウリヤノフ兄弟は帝国政府から「テロリストの兄弟」として危険視され、常に秘密警察から監視される日々を送ることになったのです。

 レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めました。3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可されました。国家検定試験でも134人中1位という成績を残します。

 1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられます。ちなみにサンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得しています。ただフランス語は苦手だったらしく、後年にフランス語での講義を断ったというエピソードが残っています。


1895年のレーニン
Source:Wikimedia Commons
不明 author - Reproduced widely both online and in published biographical studies of Lenin., パブリック・ドメイン, リンクによる


政治家へ

 マルクス主義運動家として活動しはじめたレーニンは、1895年に労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成しますが、12月7日に逮捕・投獄され、1897年にシベリア流刑、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放されました。

 1898年7月、彼は社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚します。1899年4月に『ロシアにおける資本主義の発達』を出版。1900年に刑期が終了し、7月にスイスへ亡命しました。スイス滞在中秘書アンジェリカ・バラバーノフを通じて、イタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニと面会しています。

ロシア社会民主労働党の再建と分裂

 レーニンが流刑地にいた頃、ロシアの社会民主主義者の間では経済主義と呼ばれる考え方が影響力を拡大していました。ツァーリズムを打倒するための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視するものでした。

 レーニンはこの経済主義に反対し、広く支持を得ました。刑期終了後の1900年12月、彼は同じく経済主義に反対して政治闘争を重視する活動家とともに政治新聞『イスクラ』を創刊します。編集局のメンバーは彼のほかにマルトフ、ポトレソフ、プレハーノフ、アクセリロード、ザスーリチなどがいました。

 この新聞を中心とするグループはイスクラ派と呼ばれています。レーニンはそれまでに多数の偽名を用いていましたが、1901年12月に初めて「レーニン」(レナ川の人)という名を使用しています。流刑地の近くを流れているレナ川から取ったとされています。

 1902年、レーニンは経済主義批判を主な目的として『何をなすべきか?』を書きました。

 労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものです。彼はその際、「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用しました。この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになります。

 イスクラ派のイニシアティブにより、1903年にロシア社会民主労働党 (РСДРП, RSDRP) 第2回党大会が開かれました。この大会は1898年3月14日に結成されたまま弾圧によって機能停止していた同党を再建したものです。しかしイスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって分裂し、再建されたばかりの党はボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)という二つの分派に分かれました。

 「イスクラ」編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となったのです。

第一革命と労農民主独裁論

 1905年に血の日曜日事件が起こると、レーニンは来るべき革命の性格を「労働者と農民の革命的民主主義的独裁」と規定しました。メンシェヴィキが自由主義ブルジョアジーによるブルジョア革命を構想し、プロレタリアートはそれを側面から支援すべきだと考えたのに対し、レーニンはプロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命を構想したのです。この考え方は後に労農同盟論として発展して行きました。


ソ連のプロパガンダにおけるレーニンの横顔
Source:Wikimedia Commons
JohnnyWiki - 投稿者自身による作品, derivative from file КПСС.svg, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


帝国主義戦争と革命的祖国敗北主義

 1914年8月に始まった第一次世界大戦をレーニンは帝国主義戦争と規定します。交戦国のいずれも帝国主義国であり、支持すべきでない、という立場を取ったのです。第二インターナショナルを形成していた各国の社会民主党がそれぞれ自国政府を支持したのとは逆に、革命を容易にするという観点から自国政府の敗北を主張しました(革命的祖国敗北主義 )。この考え方を表したボリシェヴィキのスローガンが「帝国主義戦争を内乱へ転化せよ」です。

 1916年、チューリヒで帝国主義戦争の経済的基礎を分析し、『帝国主義論』を出版、資本主義は自由競争の段階から独占の段階へと転化したこと、列強諸国による植民地の奪い合いが激しくなっていることなどを指摘しました。また、帝国主義を資本主義の最高の発展段階、生産が社会化する社会主義革命の準備段階と歴史的に位置づけたのです。


二月革命から十月革命へ

 1917年2月にロシアで二月革命が勃発すると、レーニンはドイツ政府との協定によって封印列車でペトログラードに戻り、『四月テーゼ』を公表しました。臨時政府をブルジョアジーの権力、ソヴィエトをプロレタリアートの権力と見なし、前者から後者への全面的な権力の移行を主張するものとなりました。

 同年7月に兵士たちの武装デモが鎮圧され、ボリシェヴィキに対する弾圧が強まったためレーニンはフィンランドへ逃れましたが、その後、8月に右派のラーヴル・コルニーロフ将軍の反乱が起こると臨時政府の側に立ちます。反乱との闘争を通じてボリシェヴィキが支持を急速に拡大し、ソビエトで多数派を占めることができたため、即時武装蜂起を主張。ボリシェヴィキ内部の慎重派を押し切って十月革命を実現させたのです。

 レーニンが十月革命の直前に書き、革命直後に出版したのが『国家と革命』です。国家を階級支配の機関とみる国家観に立ち、既存の国家機構は奪取するだけでなく粉砕して新しい国家機構をつくらねばならない、と主張することにより、臨時政府からソヴィエトへの権力移行を理論的に基礎づけようとするものだったのです。また、レーニンは本書で「いずれ国家は死滅する」と無国家社会への展望を記しています。

権力の獲得


十月革命でペトログラードの群集を前に演説するレーニン
It appears in many media, but the original source is unknown


 1917年11月7日、レーニンはペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト軍事革命委員会の名で声明を発表し、「臨時政府は打倒されました。国家権力は、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトの機関ペトログラードのプロレタリアートおよび守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会の手にうつった」と宣言したのです。

 翌日、全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト第二回大会において平和に関する布告を発表し、第一次世界大戦の全ての交戦国に無併合・無賠償の講和を提議します。同時に土地の私有を廃止する土地に関する布告や世界初の八時間労働制の法制化を発表しました。同大会では臨時政府として人民委員会議が設立され、レーニンは初代人民委員会議議長に選ばれました。

 一方、ソヴィエト政府は政権発足と同時にブルジョア新聞を閉鎖し、12月20日には秘密警察として反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК チェーカー)を創設し反政府派の弾圧を始めました。翌年1月19日にはボリシェヴィキ自身が開催を求めていたはずの憲法制定会議を開会直後に解散させています。


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