ウズベキスタン現地予備調査 ブハラの歴史 History of Bukhara 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月7日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
<全体メニュー・中央アジア> 旅行計画 入国審査 ホテル周辺 ブハラの概要 ブハラの歴史 ブハラの歴史以前に、ウズベキスタンの歴史を概観します。主な出典はWikipediaです。 ◆ウズベキスタンの歴史 古代-10世紀 ウズベキスタンの国土の中央部は、古代よりオアシス都市が栄え、東西交易路シルクロードの中継地ともなってきたトランスオクシアナ地域の大部分を占めています。 この地域は古代にイラン系のソグド人が活躍しましたが、8世紀にアラブ人によって征服され、宗教的にはイスラム化しました。10世紀にはテュルク民族(カラカルパク人など)が進出し、言語的にテュルク語化が進みます。 ・モンゴル帝国・ティムール朝 ウズベキスタンは13世紀にモンゴル帝国に征服され、このとき多くの都市が甚大な被害を受けますがすぐに復興を果たします。14世紀にはこの地から興ったティムール朝が中央アジアから西アジアに至る広大な地域を征服し大国家に発展しました。 ・ウズベク3ハーン国 ティムール朝の衰亡後、北からウズベク人が侵入し、ウズベク3ハン国と呼ばれるブハラ・ハーン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を立てます。ここにブハラ・ハーン国のはじまりがあります。 ・ロシア帝国・ソビエト連邦 ウズベク3ハーン国は、19世紀に北からのロシア帝国に征服され、ロシア革命後、ソビエト連邦下の共和国となります。その後、ソビエト共産党政府の統治下に入り、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となりました。ブハラは、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の州、都市となります。 ・独立 その後、1991年のソ連崩壊によってウズベク・ソビエト社会主義共和国はウズベキスタン共和国として独立し、同時に独立国家共同体(CIS)に加盟します。独立後は、現在に至るまでイスラム・カリモフ大統領が権力を集約し、ほぼ独裁政権となって統治しています。ブハラは、ウズベキスタン共和国の州、都市となります。2001年のアフガン侵攻以来、アメリカ軍の駐留を受け入れてきたが、2005年にこれを解消し、アメリカ軍は撤収した。現在、ウズベキスタンは上海協力機構と関係を深めている。 出典は主にWikipediaです。 ◆ブハラの歴史 中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古く、考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立していたことが明らかになっています。 古代のこの地方ではペルシア帝国の影響を受けたイラン系の文明が発達し、紀元後のブハラではソグド人の都市国家が建設されていました。 都市国家ブハラの商人たちはシルクロード、東西交易の仲介者として活躍し、隋唐時代の中国の記録には「安国」という名称で登場しています。また1060年に成立した唐の歴史書新唐書西域伝にも記載があります。
しかし、8世紀初頭には、この地方にイスラム帝国の勢力が及びブハラは709年にウマイヤ朝のホラーサーン総督クタイバ・イブン=ムスリムによって征服されました。これ以後ブハラはイスラム教を奉ずる勢力の支配下に置かれ、次第にイスラム化が進むことになります。 9世紀後半、土着のイラン系貴族がアッバース朝から自立してサーマーン朝が成立し、ブハラは10世紀末まで続いた王朝の首都となりました。 サーマーン朝の時代には東方の草原地帯からイスラム世界に向かって送り込まれるテュルク系のマムルーク(奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムルーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げたのです。 サーマーン朝時代にブハラの市域は大幅に拡張され、要塞と長大な市壁に囲まれた市街地、およびその周囲に発達した郊外地域からブハラは大都市となり、サマルカンドにかわってマー・ワラー・アンナフルの中心都市に成長しました。 ブハラは文化的にはサーマーン朝の君主の保護のもと、イスラムによるサーサーン朝の征服以来衰退していたペルシア語による文化活動が興隆し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記するようになった近世ペルシア語の文学活動の中心地となりました。 また君主の保護によってさまざまな施設が建設され、中でも第2代君主イスマーイール・サーマーニーを葬ったイスマーイール・サーマーニー廟は、現在まで残されており貴重な文化遺産になっています。 出典は主にWikipediaです。 下は今に残るイスマーイール・サーマーニー廟です。ブハラの都市公園の一角にあります。 今に残るイスマーイール・サーマーニー廟 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-2-25 今に残るイスマーイール・サーマーニー廟 撮影:ブハラの現地私立学芸員 Nikon Coolpix S6400 2015-2-25 サーマーン朝の滅亡後、テュルク系のカラハン朝、ホラズム・シャー朝の支配下に入り、政治・経済・文化の中心ではなくなりましたが、依然として中央アジア屈指の大都市であったことには違いがありません。 しかし13世紀の前半にはモンゴルの征服を受け、市街が破壊されていったんは荒廃することになります。 その後モンゴル帝国支配下で徐々に人口が回復し、同世紀の後半までに都市は復興しましたが、15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドにあったこともあり、征服以前の繁栄には及びません。
15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた外交使節の陳誠が陸路でこの地を訪れ、『西域番国志』に当時のブハラ(「卜花児」と記載)の様子を記録しています。 16世紀後半、ウズベク人のシャイバーン朝がブハラを実質上の首都と定めるとともに、ブハラは再び拡大に転じます。アブドゥッラーフ2世(1583年 - 1598年)はブハラの再開発を推進し、王族、ナクシュバンディー教団、貴族によってモスク、マドラサ、公衆浴場、商店街が建設されていったのです。 下は、今回宿泊したホテルのすぐそばにあったアブドゥールアジズ・ハン・メドレセです。 ホテルのすぐそばにあった有名なアブドゥールアジズ・ハン・メドレセ 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-2-25 シャイバーン朝以来、アストラハン朝、マンギト朝とこの地方を支配した歴代の王朝はブハラを首都としていたことから、この政権はブハラ・ハーン国(ブハラ・アミール国)と呼ばれています。 ブハラ・ハン国の首都となったブハラは、中央アジアにおけるイスラム教学の中心地としても重要な役割を果たし、「ブハーラーイ・シャリーフ(聖なるブハラ)」と呼ばれるようになり、各地から多くのムスリムが巡礼や修学に訪れる宗教都市の性格も帯びるようになりました。
19世紀後半にブハラはロシア帝国によって征服され、ブハラ・アミール国はロシアの保護国としてその植民地に組み込まれました。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれる近代都市を建設したことから、ブハラは本来の都市構造と景観を維持することができたのです。 また、新ブハラを起点としてロシアの各地とブハラを結ぶ鉄道の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられました。カガン駅は現在もブハラの鉄道の玄関口になっています。 下は現在のウズベキスタンの鉄道網です。ブハラが鉄道の分岐点となっていることが分かります。 ウズベキスタンの鉄道網 出典:http://www.jexpress.co.jp/logi_uzbekistan.html ロシアの支配下に入っても、旧市街に住むアミール(君主)をはじめとする支配者たちは一定の権限を残され、ブハラ人社会の指導的な階層は伝統的なイスラム教育を受けた宗教指導者たちが占めていました。 20世紀初頭、ロシア帝国内のムスリムの間で起こった教育の西洋化改革を訴える啓蒙活動(ジャディード運動)の影響がブハラにまで及び、「青年ブハラ人」と呼ばれる若い知識人たちの活動が起こりました。1910年代に入ると青年ブハラ人の運動は急進化し、アミール専制を批判し、国内改革を盛んに訴えます。 1917年のロシア革命の影響はブハラにも及び1920年に赤軍の軍事介入でブハラで革命が成功、ブハラ・アミール国が滅びブハラ人民ソビエト共和国が成立しました。しかし旧支配層から国外の汎トルコ主義者まで巻き込んだ革命勢力に対する反抗(バスマチ運動)や、ロシア共産党のソビエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は急速に瓦解してゆきます。
最終的に1924年にブハラ人民ソビエト共和国は解体され、民族の分布を基準とする境界線による新しい共和国が編成されることになりました。 民族的境界策定にあたって旧来ブハラ・アミール国の領域に住んでいた住民は、テュルク語系のウズベク語を母語とする人々はウズベク人、ペルシア語系のタジク語を母語とする人々はタジク人とされましたが、ブハラ市民の大多数はウズベク人と認定され、ブハラはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入されました。 しかし歴史的に中央アジアにおけるペルシア語文学の中心都市であったブハラではタジク語が日常的に話される割合も大きく、民族境界画定の恣意性が指摘されています。 1991年、冷戦構造終結とともに、ソビエト連邦が崩壊しウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになりました。 1993年のユネスコ世界遺産登録を経て、観光都市としてのブハラの再開発が進んでいます。ユネスコの後援で開催された1997年のブハラ建設2500周年の祭典をきっかけにブハラの歴史的建造物の修復が行われましたが、建物が本来持つ特色が失われたという声もあります。
一方、ソビエトの崩壊によってタジキスタンとの間の境界は永続的な独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多くのタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化されています。現在も、タジク人住民の中には、ウズベキスタンよりもむしろタジキスタン共和国への共感を抱く者もいると言われます。 つづく |