メアリー・ステュアートの足跡を追って スコットランド2200km走破 チャールズ・マッキントッシュ Charles Rennie Mackintosh 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2018年12月10日公開 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
スコットランド総目次へ* グラスゴー美術学校1 グラスゴー美術学校2 グラスゴー美術学校3 チャールズマッキントッシュ ◆チャールズ・レニー・マッキントッシュ チャールズ・レニー・マッキントッシュ Source:Wikimedia Commns パブリック・ドメイン, リンクによる チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868年6月7日 - 1928年12月10日)は、スコットランドの建築家、デザイナー、画家です。 アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもあります。 グラスゴー美術学校 Source:Wikimedia Commns CC 表示-継承 3.0, リンクによる ウィロー・ティールーム Source:Wikimedia Commns CC 表示-継承 2.5, リンクによる ヒルハウス Source:Wikimedia Commns CC 表示-継承 2.5, リンク チャールズ・レニー・マキントッシュは1868年6月7日、警察官の父ウィリアム・マッキントッシュと母マーガレット・レニーの四男としてスコットランド、グラスゴーに生まれた。幼少の頃より足と目に障害を持っていましたが、スコットランドの風土に触れる機会には恵まれ、多くのスケッチを描きました。 16歳の時(1889年)に、グラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンの下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強をのため入学します。在学中には多くの学校賞を受賞。後の妻となるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そしてハニーマン&ケッピー事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーと出会っています。 チャールズを含むこの4人は、ザ・フォー(The Four)と呼ばれ、グラスゴー、ロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開き、その評判はマッキントッシュの名声を確立させるに至りました。いわゆる、「グラスゴー・スタイル」と呼ばれるこの展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ウィーン分離派に影響を与えたと言われています。 1889年、ジョン・ハッチソンの事務所から、ハニーマン&ケッピー設計事務所(1901年以後は、マッキントッシュのパートナーとなります。)に移り、製図係として働きます。1890年、アレクサンダー・トムスン旅行奨学金に応募しこれを獲得。翌1891年イタリア旅行に出かけます。 27歳の若さで、母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝します。グラスゴーのティー・ルーム(Willow Tea Room)のインテリアデザイン、ヒル・ハウスの設計などを行いました。 当時、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは、建築の仕事がなくなってしまい、後年南フランスに移り水彩画家に転向しました。 1928年、喉の癌のためにロンドンで死去しました。クライズデール銀行が発行する100ポンド紙幣に肖像が使用されています。 作品 クイーンズ・クロス・チャーチ Source:Wikimedia Commns CC 表示-継承 4.0, リンクによる 建築 ライトハウス(1893年) グラスゴー美術学校(1899年) クイーンズ・クロス・チャーチ(1897年) デイリー・レコード・ビルディング(1900年) ハウス・フォー・アート・ラバー(1900年、実現せず、1996年建設) ウィロー・ティールームズ(1903年) ヒル・ハウス(1904年)- 日本建築の影響がみられる[2][3] フロレタイン・テラス(1906年、現・ハンタリアン・アート・ギャラリー) グラスゴー美術学校 図書館(1909年) 78 Derngate(英語版) (1917年) 家具 ヒルハウス(ラダーバック)(椅子、1902年) ウィロー、1(椅子、1904年) グラスゴー植物園1につづきます スコットランド総目次へ* |