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(1)概要 (2)歴史 (3)景観 (4)建造物 (5)建造物 ■コトルの歴史 コトルは2000年以上にわたり、次々と外国の勢力に征服され統治されてきたが、その中でも常に自由と自立を失わず、都市としての自治と活力を維持してきた希有の町である。 紀元前3世紀から紀元前168年までは、イリリア人による支配が続いた。
■コトルの年表 〜 476年 までは、西ローマ帝国が支配。 476 〜 1185年 東ローマ帝国・ビザンチンが支配。 11世紀途中 Doclea-Zeda 王朝 Vojislavljevics が一時支配する *Doclea-Zeta とはモンテネグロ最初の王国で、9〜12世紀の間同国を支配した。 http://www.montenet.org/history/doclea.htm 1185〜1371年 コトルはラスカの一部として、Nemanjic王朝が治めるセルビア国 に属することとなる。(12世紀から1371年までセルビアを統治) http://www.rodoslovlje.com/medieval_serbia/eng/families-nemanjics.htm 1371〜1384年 ハンガリー・クロアチア王ルドヴィック一世が支配 1384〜1391年 ボスニアの王Tvrtkoが支配 1391〜1420年 コトルは独立都市国家として存在 1420〜1797年 ヴェネチア共和国の統治下に入る。(保護される) 1797〜1805年 オーストリア王国の統治下に。 1806〜1807年 ロシア人が支配 1807〜1813年 フランスが支配 1813〜1814年 フランスが衰退後、モンテネグロとコトル湾地域 (Boka Kotorska Bay)のふたつの地域を併せて、 暫定国家Central Commissionとして存続。 1814〜1918年 第二次オーストリア王朝の支配下に入る。 その後、第一次世界大戦後、セルビア、クロアチア、スロベニア王国の一部となり、第二次大戦後までは、ユーゴスラビア共和国の6地域の一部として存在(モンテネグロに所属) 社会主義連邦共和国ユーゴスラビア崩壊後、Kotorはユーゴーに帰属していたが、その後、2006年6月3日に人口60万人で独立したモンテネグロに帰属することとなり今日に至っている。 ■地図でみるモンテネグロ 以下の地図は、1789年のヨーロッパを示している。アドリア海を見ると、ヴェニス共和国、ラグーサ共和国(これがドブロブニク共和国)とコトルを含むモンテネグロ以外は、大部分がオスマントルコ(Ottoman Emipre)とハップスブルグ家となっていることが分かる。 その意味で、都市国家であるドブロブニク、それに同じく都市国家コトルを含むモンテネグロは、中世から近世にかけてのヨーロッパ、とくにバルカン半島の有力な国家であったことが分かる。 以下の地図の凡例では、ラグーサとモンテネグロは、都市でなく国家となっている。 1789年のヨーロッパ。 出典:Europe 1789-1914、Scribner Livrary of Modern Europe, Thomson、Gale 下は1815年のヨーロッパである。この時代は、アドリア海側を含むバルカン半島南部はオスマントルコに占有され、北部はオーストリア・ハンガリー二重帝国が支配している。この時代には、ラグーサ共和国(ドブロブニク共和国)、モンテネグロはいずれもオスマントルコの軍門に下ることになる。 1815年のヨーロッパ。 出典:Europe 1789-1914、Scribner Livrary of Modern Europe, Thomson、Gale さらに以下の地図は1914年のヨーロッパを示している。以下ではヴェニス共和国、ラグーサ(ドブロブニク共和国)はいずれもオーストリア・ハンガリー二重帝国の配下となっている。しかし、コトルを含むモンテネグロは国家として再興していることが分かる。 1914年のヨーロッパ。 出典:Europe 1789-1914、Scribner Livrary of Modern Europe, Thomson、Gale ■その後のイリリア イリュリアの名は、ナポレオンによって蘇った。 ナポレオンは、ハプスブルグ家の領土だったスロベニア、クロアチア、ダルマチアをフランス帝国に編入し、1809年から1813年までの間、フランス領イリュリア州と名づけて支配した。 ウィーン会議によって、ダルマチアを除く地域はオーストリア帝国に復帰し、イリュリア王国として1849年までオーストリア帝国の支配下におかれた。 その後に再編されたオーストリア・ハンガリー二重帝国では、イリュリアの呼び名は使われなかった。 同じ19世紀のヨーロッパの民族運動の中でも、イリュリアという名前が登場した。 南スラブ民族の自立運動が起こり、特にクロアチア人の間でイリュリアの再興を求めるイリュリア運動がおこった。 ただし、この運動は誤った歴史認識に基づいているとされ、後に衰退した。 参考資料:Kotor City Guide, Stevan Kordic つづく |