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千葉県北東部短訪
③椿海
 

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
独立系メディア E-wave Tokyo

大原幽学 出典:大原幽学記念館

1:大原幽学  2:大原幽学  3:椿海  4:香取神宮  5:犬吠埼 6:猿田神社 


 ところで、大原幽学記念館がある場所から南の海(太平洋岸)の間には、江戸時代「椿海」(つばきのうみ)と言う名称の湖があり、江戸幕府はそれを干拓し、一大農地としようとした。

 注)椿海
  私達、産廃訴訟に永年関わってきた者からすると、千葉県
  旭市は、その昔、海上町と言い千葉県東部海上郡にあった
  町で約半分が「椿海」という塩水湖であった。海上町では友
  人のゴミ弁連弁護士が住民と一緒に産廃訴訟それも行政訴
  訟で勝ったことで記憶にある。理由は元々秀逸な干拓地の
  外れを産廃処分場にしようとしたことにある。

  以下はその時のNHKニュースなどだ。
  千葉県海上、産廃最終処分場許可取消 行政訴訟、東京高裁も住民側勝訴!

 以下は大原幽学記念館で撮影した写真だが、「干潟町航空写真修成図」とある。帰宅後調べてみると、確かにJRの鉄道駅で現在でも「干潟駅」と言う名の駅がある。




撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2021-7-21

 以下も大原幽学記念館で撮影した写真だが、「消えた椿海」とある。消えたというからには、もともと椿海があったことになる。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2021-7-21
 
 また大原幽学記念館の出入口に、以下のように椿の写真があった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2021-7-21

 となると、やはり現在の旭市一帯には、江戸時代椿海と言う名の塩水湖か湖があり、その後、干拓され農地となったと考えられる。


 以下は椿海についてのWikipedia日本語の解説である。

 昔、この地に邪神が住む椿の大木があり、香取神宮がこれを東方の海中に椿の木ごと放逐したところ、その跡地に水が溜まって海になったという伝説があるが、実際には当時の玉の浦の入り江が犬吠埼方面からの砂洲の形成によって出口を塞がれてできた湖である。

 栗山川/椿海水系では、日本全体の40パーセントに相当する80例にのぼる縄文時代の丸木舟の出土例があり、香取海と併せて水上交通が要衝だったとも考えられている。

 徳川家康の関東移封に伴い、木曾義昌・義利父子が近くの下総国阿知戸(現在の旭市網戸)に封じられ、義昌は死後椿海に水葬されたと伝えられている。その後義利の代に木曾氏は改易された。

 江戸時代初期に江戸の町人・杉山三郎衛門が江戸幕府に干拓を申請した。しかし、この申請は椿海を水源としている下流の村々が渇水による被害を受けるという理由で許可されなかった。

 続いて、白井治郎右衛門が友人の幕府大工頭辻内刑部左衛門とともに再度申請、この際辻内は自分が帰依していた黄檗宗の僧侶鉄牛道機の援助を求めた。鉄牛は幕府首脳に進言し、下流の村々の反対があったが人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって強行され、寛文8年(1668年)に工事が開始された。

 ところが白井は破産し、辻内が病没すると資金難もあり事業継続が困難となった。そこで鉄牛が老中稲葉正則と談判して6,000両の融資を受ける事に成功し、改めて辻内の婿養子・善右衛門と江戸商人の野田市郎右衛門・栗本源左衛門に工事の継続が命じられた。

 翌年より1年がかりで新川の開削に成功すると排水が進み、寛文11年(1671年)には新田開発が出来るまでになった。この間の3年間でのべ8万人の人員が工事に動員されたといわれている。延宝2年(1674年)からは1町歩あたり5両で干拓地の売却が開始された。

 途中、貞享3年(1686年)には工事の責任者である3人(辻内・野田・栗本)に不正があったとして追放処分を受けるが、新田開発は順調に進み、元禄2年(1695年)の幕府の検地により、「干潟8万石」18ヶ村(春海・米持・秋田・万力・入野・米込・関戸・万歳・八重穂・夏目・幾世・清瀧・大間手・長尾・高生・琴田・鎌数・新町)が成立した。


出典:千葉県

 元々湖であったこの干拓地は水害の被害を受けやすく、干拓地の排水を優先した幕府は下流に堰を設けることを禁じ、下流では渇水による被害を受けやすい状況となり、干拓地とその周辺では水害と旱魃に苦しめられることが少なくなかった。

 また、その後利根川東遷事業の影響などで下総台地を挟んだ利根川沿いでも水害に悩まされるようになっていた。そして昭和初期には排水と利水を両立させる大利根用水が計画され終戦後の昭和25年(1950年)に完成、ようやく水害と旱魃から開放されたかのようにも思われた。

 だが、昭和30年(1955年)には塩害が発生、翌年以降塩害の被害が拡大した。このため利根川河口堰の計画が昭和39年(1964年)に決定され、昭和46年(1971年)に竣工した。

 以下は、本稿の①に記した椿海の概要(Wikipedia)だが、やはりこの地には、椿海なる湖か塩水湖があったのだ。

 ※注 椿海
  椿海(つばきのうみ)は、九十九里浜の北部、現在の千葉県
  東庄町・旭市・匝瑳市の境界付近に、江戸時代初期まで存在
  した湖である[1]。江戸時代に作成された『下総之国図』(船橋
  市西図書館所蔵)では、太田ノ胡水と表記されている。伝えら
  れるところでは東西3里南北1里半(約51平方キロメートル)の
  大きさがあったと言われている。

  
  江戸時代に存在した椿海
  出典はいずれも千葉県

 以下は出典:Chibast.NETにある椿海である。この地図を見ると、鹿島大社から椿海一帯は、香取市佐原を含め水郷であったことが分かる。


椿海  出典:Chibast.NET

 以下はグーグルの衛星マップで見た当該地域である。赤マークは現存する「干潟駅」である。この一帯は現在、千葉県の中での農業出荷額第1位の旭市であり、以下のグーグル地図からも椿海の位置は周辺と色がことなり、よく分かる。


グーグルの衛星マップで見た椿海があった一帯地域
出典:グーグルの衛星マップ

 なお、以下のグーグルマップに赤マークがあるのが、大原幽学記念館の位置であり、椿海の北端から少し上にあることが分かる。


出典:グーグルの衛星マップ

 つまり、大学幽学はこの椿海干拓後に現地に来ており、干拓農地における農業についても、多面的に農民や農家を指導していたことが容易に推察出来る。以下は大原幽学記念館展示のうち、関連しそうな展示である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2021-7-21



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2021-7-21


 なお、以下はコトバンクにおける椿海の解説である。

椿海

 千葉県北東部、九十九里平野北端にあった潟湖(せきこ)。江戸初期、現在の匝瑳(そうさ)市、旭(あさひ)市にまたがる地域は、椿海とよばれた潟湖の湾入で太平洋と続いていた。

 この地が町人請負新田として開発され、干潟八万石とよぶ水田地帯が誕生した。江戸の町人杉山三右衛門、白井治郎右衛門の干拓申請は幕府によって相次いで不許可となったが、白井は大工頭辻内刑部左衛門や黄檗僧鉄牛の進言によって1668年(寛文8)干拓の許可を得た。

 干拓は白井・辻内両人によって進められ、その後資金難にも直面したが、幕府の援助もあって1670年に湖水を太平洋へ流す新川が完成し、以後3400町歩に及ぶ耕地が開かれ、村高2万4000石、18か村の新田村が成立した。

 用水は溜池(ためいけ)に依存したが不足して干害に悩まされ、また排水不良もあって水害を引き起こしてきたが、1951年(昭和26)に利根(とね)川から引水した大利根用水が完成して水田は安定し、早場米(はやばまい)地帯をなすに至った。

[山村順次]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例


 さらに以下は千葉県のリン水産部耕地課事業計画室の解説である。

◆干潟八万石の誕生
 「干潟八万石」の誕生~椿の海干拓~

 旭市、匝瑳市、東庄町にまたがる「干潟八万石」とよばれる約5,100ヘクタールの農地は、寛文10年(1670年)の干拓により海から農地へと姿を変えました。
田んぼを掘ると海の貝殻に会うことができます。

 当時の江戸は、人口の増加に対し十分な農地がなかったので、お米の価格が上がり続けていました。このため、江戸の町人、白石治郎右衛門と、大工の棟梁であった辻内刑部左衛門は、鉄牛禅師の助けを得て幕府に干拓を願い出て、現在の「新川」を掘り農地が生まれました。

 更に排水を良くするため、干拓地内に大寺川、鏑木川、五間川、七間川を掘り、「惣堀」と呼ばれる干拓地を囲む用排兼用の水路やため池も整備しましたが、干拓地に必要な水を十分得ることはできませんでした。

 また、新川の掘削によって、下流の干拓地より標高の高い水田では地下水位が低下し水不足となりました。干拓地の水害を除くためには下流の用水問題も解決する必要がありました。

位置図


干拓前「椿の海」    出典 千葉県


江戸時代に存在した椿海  出典 千葉県
 

干拓前「椿の海」
干拓後「干潟八万石」


 大正12年からは、新川を掘り広め、吉崎堰、駒込堰、干潟堰を造り地下水位の低下を抑えましたが、大正13年の旱魃を契機に、野口初太郎は利根川からポンプとトンネルなどで用水を引くことを考え、昭和10年より工事を開始し、干潟耕地や海岸地帯を旱魃から守りました。


現在の水管理   出典 千葉県

現在の水管理

 干潟耕地は、元来地盤標高が低く、新川の開削によって海側の高位部では地下水流出を防ぐため、また、河口部では高潮時の潮の侵入を防ぐため、おのおの堰を設けて水位調整を行っています。

 その後施設は全面的に改修され、東総地域の農業を支えています。干拓より330年余りを過ぎた今、水田の区画整理により新たな農地に生まれ変わっています。

尋ねてみよう
鐵牛禅師墓碑(東庄町小南、福聚寺)、東庄県民の森、夏目池
兼田貯水池、兼田分水工、東・西幹線用水路、万才自然公園
大原幽学記念館

お問い合わせ
所属課室:農林水産部耕地課事業計画室
電話番号:043-223-2859
ファックス番号:043-225-3789


 以下は里山と谷戸の風景。


出典:グーグルストリートビュー - 9月 2012

 
以下は元椿海、その後の干拓地と推定される地域の広大な田園風景


出典:グーグルストリートビュー 2014年4月


出典:グーグルストリートビュー 2012年9月


4:香取神宮へつづく