エントランスへはここをクリック   

千葉県北東部短訪
④香取神宮
 

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
独立系メディア E-wave Tokyo

1:大原幽学  2:大原幽学  3:椿海  4:香取神宮  5:犬吠埼 6:猿田神社 


 
私達は昼食をとった佐原から大原幽学記念館に行く途中、香取神宮を訪問した。

 香取神社では青山は総門から入り、池田は車を駐車場に置いてから神宮に入った。このような方法は、海外でも、たとえばバルト三国などではまったく駐車場がないだけでなく、駐停車禁止の教会などの施設が多く、最終的に青山がひとり車ら下り、撮影し、池田が後から迎えに来てもらうことにしている。

 香取神宮では、青山が一通り境内を歩き、一通り写真を撮り、池田が駐車場に車を置き合流した。


香取神宮の位置
出典:グーグルマップ


 以下は香取神宮の総門。


総門
撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900



総門
撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900



楼門(国の重要文化財
撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900



楼門(国の重要文化財
撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影 池田こみち Nikon Coolpix S9900



楼門(国の重要文化財
撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900


拝殿(国の登録有形文化財)
撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900



拝殿平面図
Source:Wikimedia Commons  投稿者自身による作品。出典:三浦正幸「香取神宮本殿」(日本建築学会計画系論文報告集、1986年)。, パブリック・ドメイン, リンクによる



拝殿(国の登録有形文化財)
撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900



本殿
Source:Wikimedia Commons  CC0, リンクによる



拝殿
Source:Wikimedia Commons , CC0, リンクによる



撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 以下は香取神宮の概要紹介。 出典は Wikipedia 他

 香取神宮は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

概要

  香取神宮は千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山」と称される丘陵上に鎮座する。日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる、
全国でも有数の古社である。

 古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。

 文化財としては、
中国唐代の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)が国宝に指定されている。建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定されており、その他にも多くの文化財を現代に伝えている。


中国唐代の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)
出典:千葉県教育委員会


祭神

 祭神は次の1柱である。

 経津主大神(ふつぬしのおおかみ) 別名を伊波比主神/斎主神(いわいぬしのかみ)、斎之大人(いはひのうし)。

創建

 社伝では、
初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる。

 また、
古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある]。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。

社領

 『延喜式』[原 7]によれば、神宮の鎮座する下総国香取郡は神郡、すなわち郡全体が神宮の神領に指定されていた。『常陸国風土記』には、鹿島神宮の鎮座する常陸国鹿島郡(香島郡)が大化5年(649年)に神郡として建郡されたとあり、香取郡も同様に建郡されたものと推測されている。

 大同元年(806年)には神宮の封戸は70戸であった。11世紀には藤原氏からの封戸寄進の記事も見える]。

 中世には、神官同士の争いや千葉氏に代表される武家からの神領侵犯があり、訴訟も頻繁に行われた。また、中世に始まる特殊収入として「海夫(かいふ)」、すなわち香取海の漁業従事者からの供祭料があった。

 千葉氏の滅亡後、代わって関東に入った徳川家康の下で天正19年(1591年)に検地が行われた。その結果社領は大幅に削減され、同年に1,000石が朱印地として与えられた。元禄期の史料では、神宮領900石、大戸社領100石、神宮寺領20石であったという。

境内


香取神宮境内案内図(主要部)
出典:香取神宮

 神宮の鎮座する丘は、中央が低く周囲が高いという形状から「亀甲山(かめがせやま)」と称されている。

 神宮境内は神域とされ手付かずの自然が残されているため、多数のスギの巨木や、イヌマキ・モミ・クロマツの大木が生育している。高木層のみでなく亜高木層・低木層・林床にも多数の草木が生育しており、スギの老令林としては県内でも有数なものであるとして、千葉県指定天然記念物に指定されている。

社殿

 現在の主な社殿は、江戸時代の元禄13年(1700年)、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の命により造営されたものである。この時に本殿・拝殿・楼門が整えられたが、うち拝殿は昭和11年(1936年)から昭和15年(1940年)の大修築に伴って改築がなされ、現在は祈祷殿として使用されている。

 この昭和の大修築では、幣殿・神饌所も造営された。主要社殿の形式は、大修築前後とも本殿・幣殿・拝殿が連なった権現造である。上記のうち本殿・楼門は国の重要文化財に、旧拝殿(祈祷殿)は千葉県指定文化財に指定されており、現拝殿は国の登録有形文化財に登録されている。

要石(かなめいし)

 境内西方に位置する霊石。形状は凸型。かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていた。要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として現在にも伝わっている。

 鹿島・香取の要石は大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。貞享元年(1684年)に徳川光圀が神宮を参拝した際、要石の周りを掘らせたが根元には届かなかったという。なお、鹿島神宮には凹型の要石があり、同様の説話が伝えられる。


5:犬吠埼へつづく