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春の熊本歴史探訪 @築城の名士、加藤清正による熊本城 A公開された絢爛豪華な本丸御殿 B往事の大名屋敷、旧細川刑部邸 この土日(2012年5月12日〜13日)、がれき広域処理問題の講演と助言で熊本市にでかけておりました。 13日(日)午前中、ひさびさに熊本市内を歩き回りました。 九州には福岡県を中心として過去40年で50回以上行っていたのですが、こと熊本県には大学卒業後、アジア経済研究所時代、日中国交回復の記念講演で研究所の方々のカバン持ちとして福岡、長崎、熊本、鹿児島を巡業して以来、40年ぶりということが分かりました。 現在、熊本市は人口70万人超、この4月1日から政令指定都市になっており、大きく様変わりしていました。これにはびっくりです。 熊本城を築城した加藤清正は、慶長年間、豊臣秀吉が朝鮮出兵したときその先陣を切ったことで有名です。もっぱら、韓国のソウル市の中心部には、その加藤清正を撃退した猛者の彫像が建っています。 宿泊先の東横イン新市街から須戸口門(下の図の右側)には歩いて10分もかかりません。門から幾重にも重なる有名な石垣の谷間を上って行きます。重たいパソコンをもっているので結構大変です。 下は3時間かけ私が歩いた熊本城探訪コースです。 須戸口門から入り熊本大神宮→東竹の丸→二様の石垣→閤り御門→本丸御殿→大銀杏熊本城天守閣(最上階まで登る)→首掛石→宇土櫓→頬当御門で外に出るというコースを歩きました。 3時間かけ歩いた熊本城探訪コース 出典:入場時にもらったパンフレットより 結局、熊本市内で講演がはじまる1時間前の午後1時まで、都合3時間半ほど熊本城とその周辺を短訪することになりました。そのうち、2時間半を熊本城、1時間を旧細川刑部邸など城の外に費やしました。 ●日本を代表する秀逸な城、熊本城 有名な熊本城の石垣 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13 標高100m以上、地上からでも50m以上の5階構造の熊本城の最上階までのぼりました! 途中、加藤清正築城から西南の役までの史実の文物が展示されています。 10日ほど前まで福島県に放射線調査で戊辰戦争の拠点、会津藩にいたこととあわせると何とも不思議な取り合わせです! 日本三大名城のひとつ熊本城 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13
加藤清正が築城した熊本城 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13 かつて日本には25000以上もの城があったと言われていますが、以下に示すように、熊本城は日本を代表する秀逸な城にさまざまな観点から選ばれています。 実際、3時間、城の内外を歩き回わりましたが、確かに過去見た日本の城の中で熊本城は秀逸、希有な城であると言ってもよいだろう!
◆加藤清正と熊本藩 熊本城といえば加藤清正である。加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、大名です。 肥後国、熊本藩の初代藩主である。別名は虎之助。朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残り、そこから「虎拳」という遊びの元になったそうです。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人です。 その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられています。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となっています。 加藤清正
私は、 加藤清正については、朝鮮出兵の拠点となった佐賀県の名護屋の佐賀県立名護屋博物館、そして韓国のソウル歴史博物館を見学した際にも、その歴史的存在を見ています。 ◆青山貞一:初秋の肥前歴史短訪 J名護屋城博物館 とりわけ韓国のソウル(漢城)では「朝鮮民族」の敵として恐れられ、また加藤清正と闘った勇猛果敢な人物を今でもソウル市の目抜き通りに彫像をたて称えているなど、立場が変わると180度評価が変わっています。
他方、豊臣秀吉、加藤清正は、利休から茶の湯を学び、嗜んでおりました。以下は佐賀県の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城と窯業、茶の湯との関係について書いたものです。 ◆青山貞一:初秋の肥前歴史短訪 K名護屋城と朝鮮唐津〜窯業と茶の湯〜 最上階からの熊本市内の眺めは、実にすばらしかったです。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13 以下は熊本城の歴史。 出典:熊本城公式ホームページ 1496年(明応5年)鹿子木親員、茶臼山西南麓(現在の古城)に築城 1550年(天文19年)大友宗麟が城主を鹿子木氏から城親冬にかえる 1587年(天正15年)豊臣秀吉が佐々成政を肥後の領主とする 1588年(天正16年)加藤清正、隈本城に入城 1601年(慶長6年)茶臼山に築城着手 1607年(慶長12年)新城完成、隈本城を熊本城に改称 1611年(慶長16年)清正死去、加藤忠広が相続 1632年(寛永9年)細川忠利肥後54万石領主として熊本城入城 1871年(明治4年)廃藩置県により肥後藩が熊本県となる鎮西鎮台を 熊本城内に設置 1877年(明治10年)西南戦争、熊本城炎上 1927年(昭和2年)宇土櫓解体修理、長塀改築 1933年(昭和8年)熊本城全域を史跡に、建造物を国宝に指定 1950年(昭和25年)国宝建造物が重要文化財に指定(文化財保護法改正) 1955年(昭和30年)史跡熊本城跡が特別史跡に指定 1960年(昭和35年)熊本城天守閣が復元落成 1989年(平成元年)数寄屋丸二階御広間復元 1991年(平成3年)9月の台風19号で甚大な被害を受けたため、天守閣を大改修 1993年(平成5年)旧細川刑部邸を東子飼町から三の丸に移築復元 2002年(平成14年)南大手門復元 2003年(平成15年)戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓復元 2005年(平成17年)飯田丸五階櫓復元 2008年(平成20年)本丸御殿大広間復元 2009年(平成21年)第U期復元整備事業着手 つづく |