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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


ティ橋1

Tay Bridge

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2020年10月10日公開予定
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載

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出典、翻訳等について

 本稿では、現地調査時に入手した資料、撮影した写真以外に、概要、歴史などでは日本語、英語のWikipediaを、また写真についてはWikimedia Commonsを、さらに地図についてはグーグルマップ、ストリートビューを使用しています。その以外については逐次出典を付けています。さらに、Wikipedia の英文版など外国語版などについては、逐次池田、青山が日本語訳しています。

 私たちは、その後、セントアンドリュースからダンティー市を通りパース(Perth)に向かいました。途中、有名なテイ橋(Tay Bridge)近くを通ります。


セントアンドリュース市からダンティー市とティ橋
出典:グーグルマップ

 このティ橋は、スコットランドのテイ湾に架かり、ダンディーとファイフのウォーミット (Wormit) の間を結ぶ、全長3,264 メートル(煉瓦造りの部分を含む)の鉄道橋です。このティ橋はフォース鉄道橋と同様、テイ橋もテイ道路橋 (Tay Road Bridge) の建設に伴いテイ鉄道橋と呼ばれています。この鉄道橋は、それ以前の鉄道連絡船を置き換えるために建設されています。


ダンティーを象徴する場所、施設
Source:Wikimedia Commons
CC0, リンクによる

 下の写真は来るから撮影した、そのティ橋です。


ティ橋
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


ティ橋
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


ティ橋
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


dンディー市側からみたティ橋
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


ダンディー・ロー(Dundee Law)の丘から見たテイ橋
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

 このティ橋はスコットランドの橋梁建設史上重要な人身事故を起こしています。

初代のテイ橋


初代のティ橋
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

 初代のテイ橋は19世紀に建設されました。テイ川を横断する橋を建設するという提案は、少なくとも1854年にまで遡ります。ノース・ブリティッシュ鉄道 (North British Railway) とテイ橋の建設法案は1870年7月15日に国王裁可を受けて、礎石は1871年7月22日に置かれました。

 設計は有名な鉄道技術者であるトーマス・バウチ (Thomas Bouch) によるもので、彼は橋の完成後騎士の称号を受けています。

 橋は鋳鉄と錬鉄を組み合わせた格子構造になっていました。この設計は、ケナード (Kennard) により南ウェールズのクラムリン高架橋 (Crumlin Viaduct) で1858年に最初に用いられ、続いて画期的な鋳鉄の使用法で知られた水晶宮でも用いられて、よく知られたものでした。

 しかし水晶宮は鉄道橋ほど負荷が掛かるものではなく、鉄道橋ではディー橋がまずい鋳鉄ガーダーの使い方のため1847年に崩壊した例があります。後にギュスターヴ・エッフェルは同じような設計でフランス中央高地にいくつかの大きな高架橋を建設しています。

 だが、橋が湾中央に向けて建設されていくにつれ、湾に関する調査が正確性を欠くことが明らかとなりました。岸のそばでは浅い位置にあった岩盤は次第に深くなり、最終的に橋脚を建てるには深くなりすぎてしまったのです。

 バウチは橋脚の再設計を迫られ、下に支えがないことを補償するため湾の底により深く橋脚を打ち込まなければならなりませんでした。また、彼はそれまでよりもガーダーのスパンを伸ばすことで橋脚を削減しました。これによりガーダーは風の影響を無視できる長さを超えてしまいましたが、バウチはこれを無視しました。

 最初の列車は1877年9月22日に橋を横断しました。その後1878年初頭に橋が完成すると当時世界一長い橋となり、同年6月1日には開通を迎えました。ダンディーの町を訪れていたユリシーズ・グラントは、この橋について「小さな町に対しては大きな橋」(a big bridge for a small city) とコメントしています。

テイ橋の崩壊

 1879年12月28日の夜、嵐の中で橋の中央の「ハイ・ガーダー」(High Girders) と呼ばれる区間が走行中の列車を巻き込んで崩壊しました。75名が死亡したとされ、この中にはトーマス・バウチの義理の息子も含まれていました。

 60人の名前の分かった犠牲者のうち、46人のみ遺体が発見され、このうち2人の遺体は1880年2月になってから見つかっています。行方不明者も多く、正確な犠牲者数は乗車券の販売数を厳密に集計することで算出されました。

 この中には遠くロンドンのキングス・クロス駅からのものもありました。ダンディーにおける19世紀の一般的な都市伝説の中には、カール・マルクスはこの列車に乗るはずだったが、病気で旅行に出られなかったために実際には乗車しなかった、というものがあります。

 捜査官はすぐに事故の原因となった設計・材質・工法上の欠陥を調査し、バウチの設計は風による荷重に対して余裕がなかったとしました。彼は、200 フィート以下のガーダーでは風に対する考慮は不要と報告されていましたが、より長い 245 フィート(約 75 メートル)のガーダーへ設計変更した際にこれを見直さなかったのです。

 また橋の中央部では、下の航路を通る船のマストを支障しないよう高いスルートラスの内側にレールが敷かれており、これは低いデッキトラスの上を通行する前後の区間に比べて重心が高く、風に対して脆弱でした。また、以前の半分作りかけの橋から鉄をリサイクルする現地の工場を、バウチも契約者も定期的に訪問していなかったことが明らかになりました。


落橋したテイ橋を北側から見る
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

 円筒形の鋳鉄の梁が橋でもっとも長い13のスパンを支えており、それぞれ 245 フィートの長さがありましたが、これはとても低い質のものでした。多くは水平に鋳造されており、結果としてとても薄いものになっただけでなく、不完全な鋳造を不適切に品質管理検査の目から隠していた証拠も見つかりました。

 特に、鍛造の支柱を取り付ける突起物は桁材と一体的に鋳造せず後から焼き付けられていましたが、焼き付けた証拠は残りませんでした。また通常の突起物はとても弱かったのです。デービッド・カーカルディ (David Kirkaldy) によりこれらは検査が行われ、60トンの荷重に耐えるはずのものがたったのに20トンで破壊することが証明されました。嵐の中でこれらの突起物が壊れて、橋の中央部全体の安定を損ねたものと考えられています。

 なお、この初代の橋の橋脚の残骸は満潮時でもいまなお見ることができる。


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