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第1~5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2003~2020
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


ヘルクラネウム遺跡 現地視察

パピルスのヴィラ 2
 Villa dei Papiri 2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo
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<レイアウト>

ポルティッチ側                                    ヘラクラネウム側

Ground plan showing location of tunnels (in brown)
   トンネルの位置を示す平面図(茶色)

 ヴィラは、ヘラクレネウムの最寄りの家から数百メートルのところにあります。現在は内陸にありますが、西暦79年10月の火山噴火の前は、この構造物はナポリ湾沿いに250メートル(820フィート)以上の海岸線を占めていました。反対側(内陸側)は、閉鎖された庭、ブドウ園と森に囲まれていました。

 ヴィラはメインフロアの下に4つの階があり、海を見下ろすテラスが配置されていました。最近、メインフロアが古代の海抜16 m(52フィート)であることが確認されました。

 ヴィラのレイアウトは、伝統的なカンパニア州の郊外別荘を拡張したタイプとなっています。来客はまず、狭い玄関(ファウセス)から入り、中庭のある建物(アトリウム)に進みます。アトリウムは玄関ホールとして機能し、家のさまざまな部分とのコミュニケーション手段として機能していました。建物の入り口は、海側に柱状の柱廊玄関(ポルティコ)をつくって開けました。

 タブリナム(書斎)を通過した後、中央にプールがあり、両側に10本の柱で構成された最初のペリスタイル(列柱郭)に到着します。このエリアでは、古代ギリシアのブロンズ像の彫刻家、ポリュクレイトスの作品、ドリフォラス(槍を持つ男の像)を焼き直したブロンズのヘルマ*と、アテネのアルキアスの息子アポロニオスによって作られた女性戦士(Amazon)のヘルマが見つかっています。これらは本稿の写真ギャラリーにあります。

 大きな2番目のペリスタイルには、プロピュライア*(入口となる門)の下にアテナプ・ロマコス(アテネの守護女神)の古風な像があった広いタブリナム(書斎)を通過することで到達できました。タブリウムには、ブロンズの胸像のコレクションがありました。その中には、スキピオ・アフリカヌスの胸像が含まれていました。これらも本稿の写真ギャラリーにあります。


Bronze bust of Scipio Africanus, mid 1st century BC, found in the Villa of the Papyri
パピルスの別荘で発見された紀元前1世紀半ば時代の  スキピオ・アフリカヌスの胸像
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link

 注)タブリナム(tablinum) Wikipedia(en)
  ローマ時代の建築では、タブリナムは一般的にアトリウム
  の片側にあり、入り口の反対側にある部屋でした。それは
  大きな窓、または控え室かカーテンのどちらかで、後部の
  ペリスタイルに向かって開いていました。壁はフレスコ画で
  豪華装飾され、家族の胸像は部屋の両側の台座に配置さ
  れました。 (一種の書斎)

 注)ペリスタイル(peristyle)
  ギリシア建築やローマ建築における、柱のあるポーチ、ま
  たは中庭を取り囲むコロネードで中央に庭園などがあるも
  のを指す。列柱郭とも。ローマ建築を受け継いだキリスト教
  の教会建築では、ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂などのバ
  シリカが、ペリスタイルで囲まれた前庭の背後にあって、表
  通りから隔てられていた。その後、ペリスタイルから回廊へ
  と発展していった。

 注)ヘルマ(herma)
  石もしくはテラコッタ(土製)、青銅(ブロンズ)でできた正方
  形あるいは長方形の柱。柱の上にはヘルメースの胸像が
  乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性
  の生殖器がついている。古代ギリシアの神ヘルメースの名
  はこのヘルマに由来するという説があり、一説には、ヘルメ
  ース神は商人および旅行者の守護者としての役割を担う前
  は、生殖力・運・街道と境界と関連した、ファルス(男根)の神
  であった。

 注)プロピュライア(Propylaea) Wikipedia
  アテナイのアクロポリスへの入り口として機能した当初のプ
  ロピュライアに基づいた堂々とした入り口である。「プロピュ
  ライア」という言葉(propylaeumはラテン語)は接頭辞のpro
  (前という意味)とギリシア語のpylon(門)の複数形pylaionの
  合成語であり、文字通り門の前を意味するが、この言葉は
  単に「門となる建物」を意味するようになってきた。ベルリン
  のブランデンブルク門やミュンヘンのプロピュライアはアクロ
  ポリスのプロピュライア中央部を具体的に写したものである。

 注)アテナプ・ロマコス(Athēnā Promachos)の像 wikipedia
  かつて古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスに建てら
  れていた、守護女神アテーナーの青銅像である。彫刻家ペ
  イディアスの初期の代表作で、プロピュライアとパルテノン神
  殿の間にあり、紀元前456年頃に造られた。マラトンの戦いで
  ペルシア軍から奪った戦利品を用いて作られたと言われてい
  るが、現在残っているのは基礎の大理石の部分だけである。
  記録によれば像の高さは9m程であり、左手に盾、右手に槍
  を持っていた。その大きさにより、槍の先端や兜の紋章の部
  分が遠くスニオン岬(アテネの45㎞南東)からも見えたという。

 注)スキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus) Wikipedia
  プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル
  (羅:Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 紀元前236年 -
  紀元前183年頃)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。元老院
  議員。スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥で義理の孫に当
  たるスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と区別して大スキピオ
  とも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将
  軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。グラック
  ス兄弟の外祖父にあたる。


 居住エリアとレセプションエリアは柱廊玄関とテラスの周りにまとめて配置されており、居住者に十分な日光と田園地帯と海の景色を提供していました。居住エリアでは、風呂の設備が明らかになりました。また、丸められて炭化したパピルスの図書類が木製の筒状の容器の中に置かれているのが発見されました。それらのいくつかは通常の木製の棚と壁の周りにあり、また、いくつかは部屋の中央の棚のセットの両側にありました。

 敷地内には、日陰や暖かい太陽の下で散歩するための、広い屋根付きと屋根なしの庭園が設えられていました。庭園には、胸像、ヘルマ*、小さな大理石と銅像のギャラリーがありました。 これらは、開かれた庭園部分の真ん中の柱の間と大きな水泳プールの端に配置されていました。


パピルスのヴィラ3につづく