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再短訪 片瀬
日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅
龍口山本蓮寺

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
January 28, 2022 Independent Media E-wave Tokyo


本蓮寺   藤沢市片瀬
写真撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28

龍口寺と片瀬八ヶ寺
龍口寺  法源寺   常立寺  本蓮寺   腰越漁港  小動岬  昼食
本成寺  本龍寺   東漸寺  妙典寺   勧行寺   小動神社

アクセス

 湘南モノレール江の島線湘南江の島駅より徒歩数分。 私達は龍口寺より乗用車で常立寺経由で本蓮寺を訪問した。本蓮寺には参拝者用の駐車場が完備されていた。下図で片瀬山公園上の直線はモノレール線である。

 なお、自家用車の場合は以下の住所となる。
 龍口山本蓮寺、藤沢市片瀬3-4ー41


出典 グーグルマップ

 以下は本蓮寺の三門。


本蓮寺
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

本蓮寺 概要

 595年(推古天皇3年)、聖徳太子の師義玄和尚により開かれた真言宗の寺院だったと伝えられている。

 1184年(元暦元年)11月、源頼朝により源立寿寺として再建されたのち、嘉元年間(1303年から1306年)に日秀が日蓮宗の寺とした。

 1271年(文永8年)、日蓮が龍ノ口法難を免れた際、ここで休息をしたという。1649年(慶安2年)には徳川家綱から朱印地七石を賜り、「御朱印寺」となった。1886年(明治19年)まで住職がいなかった龍口寺の輪番寺の一つ。

・龍口山本蓮寺(元大光山本圀寺末、潮師法縁、嘉元年間(1303年-1306年)頃改宗)、藤沢市片瀬

 龍口山本蓮寺、藤沢市片瀬3-4ー41

御朱印寺


本蓮寺 鐘楼  藤沢市片瀬
写真撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28

 以下は本蓮寺の扁額。


本蓮寺 扁額  藤沢市片瀬
写真撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28



本蓮寺 庭の杉の木を背景にした青山貞一  藤沢市片瀬
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28


 背後の山は龍口寺の境内になる。


本蓮寺 背後の山は龍口寺  藤沢市片瀬
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28


 背後の山は龍口寺の境内になる。


本蓮寺 背後の山は龍口寺  藤沢市片瀬
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28



本蓮寺所蔵の文化財
伝元使塚
伝元使塚
 五輪塔は、密教がいう万物の構成要素の地水火風空をそれぞれ方、円、三角、半月、宝珠の形で重ねて表したもので、平安後期に出現し鎌倉時代以降に供養塔や墓標として全国的に流行しました。この五輪塔は、文明の役(一二七四)の翌年の建治元年に元より降伏勧告に使わされ、鎌倉幕府の執権北条時宗の命によって龍の口(片瀬川から腰越あたり)で斬首された杜世忠ら五人の元使の供養塔と伝えられています。その後、元は再度日本を襲撃(弘安の役、一二八一)しましたが、前回同様に台風で多くの船・兵を失い退散しました。(藤沢市教育委員会掲示より)

 以下の出典はは猫の足跡。

龍口山本蓮寺。
龍口寺輪番八ヶ寺、推古天皇3年創建

本蓮寺の概要

 日蓮宗寺院の本蓮寺は、龍口山と号します。本蓮寺は、聖徳太子の師高麗恵慈の弟子義玄が推古天皇3年(595)に長塚山三論寺と称して創建、元暦元(1184)年に源頼朝公が七堂伽藍を再建したことから源立寿寺と改称したといいます。嘉元2(1304)中老僧日秀の教化により日蓮宗に改め本蓮寺と改称、龍口寺輪番八ヶ寺の一寺でした。江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領してます。

本蓮寺
本蓮寺の概要
山号 龍口山
院号 -
寺号 本蓮寺
住所 藤沢市片瀬3-4-41
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -

本蓮寺参道
本蓮寺山門
本蓮寺本堂
本蓮寺鐘楼堂

本蓮寺の縁起

 本蓮寺は、聖徳太子の師高麗恵慈の弟子義玄が推古天皇3年(595)に長塚山三論寺と称して創建、元暦元(1184)年に源頼朝公が七堂伽藍を再建したことから源立寿寺と改称したといいます。嘉元2(1304)中老僧日秀の教化により日蓮宗に改め本蓮寺と改称、龍口寺輪番八ヶ寺の一寺でした。江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領してます。


「日蓮宗寺院大鑑」による本蓮寺の縁起

 推古天皇御代(~593)の創立。開基義玄。潮師法縁。聖徳太子の師高麗恵慈の弟子義玄により開かれ、長塚山三論寺と称し、元暦元(1184)年源頼朝公により七堂伽藍を再建。文治元(1185)年に御堂供養式が行われ、頼朝公再建に因んで寺号を源立寿寺と改称した。嘉元2(1304)中に中老僧日秀の教化により改宗、寺号を本蓮寺と改称。安産守護の祖師を安置、子安霊場として信仰された。元弘3年、新田義貞の鎌倉攻めにより諸堂と寺寶を全焼。その後本堂・七面堂・鐘楼・稲荷堂等、また仏乗院・円頓坊・本光坊等の塔頭が再建され、慶安2年に徳川幕府より御朱印を賜り御朱印寺と称した。(「日蓮宗寺院大鑑」より)


本蓮寺
(ほんれんじ)

源頼朝、日蓮ゆかりの寺院

 江ノ島詣の参道、片瀬の旧道に位置する本蓮寺。1400年以上の歴史を持ち、源頼朝、日蓮、西行、宗尊親王にゆかりのある歴史的な古刹です。

エリア藤沢・江ノ島

住 所 神奈川県藤沢市片瀬3-4-41
創 建 595年(推古天皇3年)
アクセス 江ノ電「江ノ島駅」、湘南モノレール「湘南江ノ島駅」もしくは「目白山下駅」」下車、徒歩5分。小田急「片瀬江ノ島駅」下車、徒歩10分

 江ノ島詣の旧道から望む本蓮寺。緑がきれいです。背後の山の向かい側が龍口寺です。

江ノ島詣の旧道から望む本蓮寺。緑がきれいです。背後の山の向かい側が龍口寺です。

 以下の出典は鎌倉タイムズ

1400年超の歴史を持つ寺院

 遠く595年(推古天皇3年)、義玄和尚により開山され、1184年(元暦元年)源頼朝が源立寿寺として再建しました。その後、1304年(嘉元2年)日秀が日蓮宗に改宗しました。霊場としての歴史の古さでは552年(欽明天皇13年)にゆかりを持つ江ノ島とともに鎌倉・江ノ島地域でも屈指のものがあります。

鎌倉殿駒牽(こまつなぎ)の松

 1185年(文治元年)源頼朝の父、義朝の遺骨が朝廷から届けられ頼朝はこの地において受け取り、本蓮寺において供養したといわれています。現在はありませんが、その時頼朝駒を繋いだ松があったとされ、鎌倉殿駒牽(こまつなぎ)の松と呼ばれていたそうです。

日蓮龍ノ口法難のゆかり

 1271年(文永8年)、龍ノ口法難を逃れた日蓮が本蓮寺において休息したといわれています。

西行もどり松

 その昔、本蓮寺門外に見事な松があり、西行もどり松と呼ばれていたといいます。現在ではその故事に由来して再現されています。

 水戸光圀編纂による『新編相模国風土記稿』にはこうあります。「土俗は戻松と呼べり、本蓮寺の門外大路の傍に在り、枝葉西方に指す、往昔西行此地に来たり都の方を見返り、此枝を取て西方に押ねげむけたり、故に此名ありと云ふ」

宗尊親王歌碑

 皇族で初めて鎌倉幕府の将軍となった第六代将軍宗尊親王の歌碑があります。後嵯峨天皇の長子であったが母方の身分が低く、寵愛していた後嵯峨天皇が将来を憂い、1252年(建長4年)鎌倉に迎えられます。

 しかし、1266年(文永3年)謀反への関与が疑われ北条政村・時宗によって解任され京へと送還されることとなります。その際、本蓮寺に参籠し歌会において残した歌が碑となっています。「帰り来て 又見ん事も 固瀬川 濁れる水の すまぬ世なれば」。

 鎌倉の範囲が広がったといわれる鎌倉時代後期には、本蓮寺の西を流れる境川までが鎌倉であったそうですから、本蓮寺はまさに鎌倉の西端に位置する重要な古刹であったでしょう。

江ノ島詣の旧道に佇む古刹/龍口寺輪番八ヵ寺の一つ

 江ノ電江ノ島駅前を横切る道は江ノ島詣の旧道です。そのため、寺社や道標など史跡が多くあります。

 この旧道を本蓮寺へと至るには江ノ島駅を降りたら江ノ島と反対方向に進みます。

 4、5分歩くと北条時宗が誅殺した元の使者の供養塔がある常立寺があり、すぐに本蓮寺がみえてきます。本蓮寺、常立寺ともちょうど山を挟んで龍口寺と隣接しています。本蓮寺、常立寺ともに1337年(延元2年)から1886年(明治19年)まで550年に渡り日蓮の霊跡である龍口寺を守った龍口寺輪番八ヵ寺の一つです。


腰越漁港へつづく