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再短訪 片瀬
日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅
龍口山常立寺

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
January 28, 2022 Independent Media E-wave Tokyo


常立寺 本堂  藤沢市片瀬
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-1-28

龍口寺と片瀬八ヶ寺  日蓮聖人の生涯概要
龍口寺  法源寺   常立寺  本蓮寺   腰越漁港  小動岬  昼食
本成寺  本龍寺   東漸寺  妙典寺   勧行寺   小動神社

アクセス

 湘南モノレール 江の島線 湘南江の島駅より徒歩1分。 私達は龍口寺より乗用車で常立寺に移動、訪問した。常立寺には参拝者用の駐車場が完備されていた。下図で片瀬山公園上の直線はモノレール線である。

 なお、自家用車の場合は以下の住所となる。
 龍口山常立寺、藤沢市片瀬3-14-3


出典 グーグルマップ

 以下は錠率時の三門。


常立寺 三門  藤沢市片瀬
写真撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28

・龍口山常立寺(元身延山久遠寺末、潮師法縁、1532年改宗)、藤沢市片瀬
龍口山常立寺、藤沢市片瀬3-14-3

常立寺

 常立寺(じょうりゅうじ)は神奈川県藤沢市片瀬に建つ日蓮宗の寺。山号は龍口山。北条時宗の命により処刑された杜世忠ら元国使の塚がある事で知られる。また枝垂れ梅の名所としても知られ、梅がほころぶ初春には多くの観光客が訪れる。旧本山は身延山久遠寺[1]。潮師法縁。

歴史

 龍口には罪人の処刑場があったが、場所については諸説あり、処刑場は龍口寺の入口西側、埋葬地は常立寺、すばな通り中央付近の西側などの説がある。

 第一の元寇である文永の役の翌年、文永12年(1275年)4月15日長門国室津(現在の山口県下関市)に上陸し、高麗等の各国と同様に元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の国使ら5名も建治元年(1275年)9月7日処刑されこの地に葬られた。

 処刑された者たちを弔うため「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれる龍口寺の隣接地に埋葬され、「面影塚(おもかげづか)」を作り供養塔を立てた。

 ここに真言宗の回向院利生寺と称した寺が創建されたのが常立寺のもとである。

 その後利生寺は享禄5年(1532年)に妙光山法華寺(現円融寺)7世日豪により日蓮宗へと改宗し常立寺と改称した。

 当初は法華寺の末寺であったが元禄11年(1698年)身延山久遠寺の末寺となる。

 改宗後は周辺の日蓮宗の寺7ヶ寺と共に輪番で龍口寺の住職を務めていたが(片瀬八ヶ寺)、龍口寺に住職が置かれるようになった1886年(明治)19年以降は輪番制度はなくなり、本寺の運営に専念するようになった。

 第4世日等の時に番神堂が造られた。

 1925年(大正15年)9月7日、時の住職磯野本精により元使塚が建てられた。

2005年(平成17年)4月7日、朝青龍や白鵬らモンゴル出身の幕内・十両力士らが元使塚を参拝。モンゴルで青い布(青はモンゴルで英雄を意味する色)を五輪塔に巻き、元使を弔った。その後も毎年、藤沢で巡業の際にモンゴル出身力士による元使塚参拝が行われるようになり、五輪塔には常に青い布が巻かれるようになった。

 2007年(平成19年)3月1日にはモンゴル国大統領、ナンバリーン・エンフバヤル夫妻が元使塚を参拝した。


常立寺 本堂  藤沢市片瀬
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-1-28


常立寺本堂の扁額  藤沢市片瀬
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-1-28


常立寺本堂の鐘楼  藤沢市片瀬
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-1-28


常立寺庭園  藤沢市片瀬
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-1-28

常立寺の概要・縁起等   出典:猫の足跡

 日蓮宗寺院の常立寺は、龍口山と号する。常立寺の草創年代等は不詳ながら、日向山利生寺と称す真言宗寺院として草創、龍ノ口で処刑された罪人を回向していたと伝えられている。

 当地の地頭鈴木隼人正が天文年間(1532-1555)碑文谷法華寺(現円融寺)7世日豪に入信、鈴木隼人正の菩提寺だった利生寺を日蓮宗に改め、日豪上人を開山に迎えて竜口山常立寺と号したといいます。龍口寺輪番八ヶ寺の一寺でした。

常立寺の概要
山号 龍口山
院号 -
寺号 常立寺
住所 藤沢市片瀬3-14-3
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -

境内・伽藍

常立寺参道
常立寺山門
常立寺本堂
常立寺鐘楼堂

常立寺の縁起

 常立寺の草創年代等は不詳ながら、日向山利生寺と称す真言宗寺院として草創、龍ノ口で処刑された罪人を回向していたと伝えられます。当地の地頭鈴木隼人正が天文年間(1532-1555)碑文谷法華寺(現円融寺)7世日豪に入信、鈴木隼人正の菩提寺だった利生寺を日蓮宗に改め、日豪上人を開山に迎えて竜口山常立寺と号したといいます。龍口寺輪番八ヶ寺の一寺でした。

新編相模国風土記稿による常立寺の縁起
(片瀬村)

 龍口山と號す(身延久遠寺末)龍口寺輪番同宗八箇寺の一なり、故に此山號あり(下本蓮寺も是に同じ、)開山は日豪と云ふ(武州碑文谷法華寺七世)永正中、豪、日向山利生廢寺の舊池に就て開基し、今の寺山號に改め、當宗に屬すと云ふ(古昔の宗派を傳へず、)

△番神堂。堂地もと古塚あり、誰姿森(多我須賀茂利)と號す、其塚上に此堂を建しと云ふ(今は毀廢せり)(新編相模国風土記稿より)
「日蓮宗寺院大鑑」による常立寺の縁起

(大観には、天文元(1532)年正月の創立。開山日豪。開基鈴木隼人正。初めは真言宗に属し、回向山利生寺と号す。竜ノ口で頼朝が罪人を処刑し、ここに葬って回向していたという。蒙古の三使もここに葬られており、面影塚の称を残している。のち天文年間、当地地頭鈴木隼人正は、江戸碑文谷法華寺7世日豪の教化を受け、その菩提寺であった利生寺を竜口山常立寺と改め、日豪を開山として迎えた。法華寺が廃せられて後は身延末になるとある)(「日蓮宗寺院大鑑」より)


本蓮寺へつづく