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補遺・宮沢賢治 再掲載

青山貞一・池田こみち 
環境総合研究所顧問
掲載月日:2019年3月20日 2020年3月11日第2次公開
 独立系メディア E-wave Tokyo
断転載禁

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宮古市1 宮古市2  宮古市3 宮古市田老地区1  宮古市田老地区2 
宮古市田老地区3   参考:宮沢賢治



宮沢賢治

 2011年8月の第一次三陸津波現地調査では、せっかく花巻まで行きながら、宮沢賢治記念館に時間がなく行けなかった。

 しかし、
2011年12月の現地調査では新幹線を待つ1時間ちょっとの時間ではあったが宮沢賢治記念館を訪問することができた。

 
行ってみて分かったのだが、何の因果か宮沢賢治は何と明治三陸津波が起きた1896年(明治29年)に生まれたことが分かった。


出典:第一次調査時の新花巻駅舎にて


出典:第一次調査時の新花巻駅舎にて

 宮沢記念館では、ボランティア学芸員からいろいろ貴重なお話が聞けた。

 宮沢賢治は、理性、知性が高く、同時に、感性するどいことで知られている。
 
 賢治は、わずか37歳という短い人生にあって、いまに言う生態学や土壌学などの環境科学はもとより、信仰から童話などの文学、音楽、オペラ、絵画などあらゆる芸術を自ら嗜むなど、まるでイタリアのレオナルド・ダヴィンチやミケランジェロなみの全人格的な能力を発揮しつづけた希有で秀逸な人間であることが、今更ながら分かった。
 
 あらゆる事柄が個別専門分化している今の世界にあって、賢治のように森羅万象にわたり興味、関心を抱き、同時にパッション、情熱を持って問題解決に奔走する人間が今こそ必要ではないかと思う。

 今回、第一次、第二次調査ともに、賢治のふるさとである岩手県花巻を拠点として、東日本大震災・津波の被災地調査を行ったが、もし、宮沢賢治が生きていたら、現状をどうみるか、大変興味深いものがある。

 今回まわった三陸海岸は、どれも個性があり自然、地形、歴史、文化と生活がそれなりに融合している場所である。
 
 私は昔から「特異な地形」をまちづくりに生かすことを重視してきた。今回訪れた場所の多くはまさに「特異な地形」がそこかしこにある場所である。

 内陸の遠野、花巻、平泉には、独自の歴史と文化がある。

 なお、
宮沢賢治は晩年、法華経に帰依した。法華経は言うまでもなくインドから伝来した大乗仏教であり、原始仏教などとも呼ばれている。法華経では人間すべて平等であり、その他、現代社会で重要な持続可能理念である平和、環境などもある。

来年定年を迎えるという小原松男船頭が歌う南部牛追唄
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 野田村にも塩の歴史、文化もある。食べ物も海、山ともに素材がたくさんある。

 東日本大震災・津波を大きなきっかけとして、ぜひとも私たちは東北地方を見直し、日本国民がもっともっと観光であれ何であれ、足を運ぶ地にしなければならないと思う!

 そして、このブログが、そのきっかけとなればと思う。

 
宮沢賢治



●宮沢賢治の優しさこそ東北の神髄

                          池田こみち

 宮沢賢治の生家はとても貧しかったという。37歳という短い人生の間に東北地方の凶作を何度も経験し、そのたびに苦しむ農家を救いたいという思いを募らせていった。家族や自分自身の病気、日露戦争なども賢治の人生に大きな影響を及ぼしている。

 こうした辛く厳しい経験は、貧しい人や小さな生き物にやさしい賢治の性格を育んだのだ。農業化学の専門家として土壌の改良に取り組み、農家を指導した一方、野の花、昆虫などを愛し、多くの心優しい歌や詩、物語を残し、夢を語った。

 賢治のふるさと、花巻市の辺りの東北弁はとてもリズミカルでやさしい言葉なのだそうだ。今では純粋な方言を話せる人も少なくなっているようだが、それぞれの地域で、地元の言葉で、地元の物語を語り継ぐひとを育てることも大切な事業ではないだろうか。

 花巻市の隣の遠野市では、課外授業として地元のお年寄りが語り部の伝授をしているという。子どもたちが地域の歴史や文化に愛着と誇りを感じることができてこそ復興の一歩が始まると思う。


本稿はこれで終了””