2018年・東日本大震災 復旧実態調査(岩手県編) 大槌町沿岸4 青山貞一・池田こみち 環境総合研究所顧問 掲載月日:2019年3月20日 2020年3月11日第2次公開 独立系メディア E-wave Tokyo 断転載禁 |
<総合メニューへ> 大槌1 大槌2 大槌3 大槌4 大槌5 大槌6 大槌7 大槌8 宮古市1 宮古市2 宮古市3 宮古市田老地区1 宮古市田老地区2 宮古市田老地区3 参考:宮沢賢治 ◆大槌町沿岸4 出典:東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に 関する専門調査会配付資料 大津市街の大槌稲荷神社の位置 出典:グーグルマップ 以下は2011年9月に行った現地調査の概要である。 ◆2011年8月現地調査時の大槌町の被災状況 ~現地に見る生死の分かれ目~ 大槌町の地域により異なるが、各地で目視で確認及び住民らへのインタビューでは、津波の高さは市街地でも3階のビル屋上を超え20mに及んでいる地域も結構あった。 また海に流れ込む河川がある場合、例えば中小の河川の場合、上流5km近くまで津波が押し寄せ家屋を破壊していた。 岩手県大槌町では安渡の高台にある大槌稲荷神社の宮司さんに詳細なインタビューを行った。 大槌町は小さな町で複雑に海岸線が入り組んだリアス海岸の一角にある町だが、神社に逃げ込んだ地域住民は命が助かった、しかし、家財などを取りに自宅に戻った人(主に父親)は帰らぬ人となったとのことである。 この神社では3.11以降、当分の間150人もの被災住民を境内、神社内で対応したとのことだ。 以下は大槌町の安渡地区で生死を分けた大槌稲荷神社の階段である。上から2段下近くまで津波が押し寄せたという。 生死を分けた岩手県大槌稲荷神社の階段 撮影:青山貞一 下の写真で青山の右足が置いてあるところまで津波が押し寄せたとのことである。 生死を分けた岩手県大槌稲荷神社の階段にて 撮影:池田こみち 生死を分けた岩手県大槌稲荷神社にて 撮影:青山貞一 生死を分けた岩手県大槌稲荷神社にて 撮影:青山貞一 大槌稲荷神社 〒028-1105:岩手県上閉伊郡大槌町安渡2丁目8-1 稲倉魂命・健御名方命二柱を御祭神として、当初は笹原稲荷の社名で、現在の寺沢の地に祀ってあったが、その後鳩崎(現在の釜鼻の地)に鎮座、 時代の経過とともに参拝者が増え境内が手狭となり、享保五 年(1720年)現在地、稲荷山に再遷宮 を以って社名を二渡神社と改称しましたが、昭和18年11月18日、社名を大槌稲荷神社と改め今日に至っています。 海の神社の特色を持ちながら、五穀豊穣・海上安全・富国安民の祈誓をこめられるなど、沿岸地方にあって霊験あらたかなお社として崇敬されています。(大槌商工会HPより) 大槌稲荷神社の位置 出典:グーグルマップ 以下は大槌稲荷神社の宮司さんへのインタビューである。 ◆大槌稲荷神社からみた津波の恐怖 池田こみち 大槌町は岩手県南部(宮古市から陸前高田市)のいわゆるリアス式海岸に面し、湾口から8kmほども深く切れ込んだ大槌湾のほぼ中央部に注ぎ込む大槌川と小槌川が作り出した狭い扇状地に中心市街地が広がっている。今回の震災では、人口15,239人(平成23年3月現在)の約10%近くに相当する1,408名(8月26日17:00現在)が死亡及び行方不明者、倒壊家屋数3,677棟と報告されている。 写真からも明らかなようにほぼ町が壊滅した状況が見て取れる。まさに空爆のあと、原爆投下の跡さながらの様相であった。 私たちは、遠野市から県道35号、さらに国道45号を経て釜石側から大槌町に入った。眼前に広がる痛々しい津波の爪痕、ガレキはほぼ仮置き場への集積が終わっていたものの、家々の土台だけが残る人影のない町の光景は見る者の心に重い石をずっしりと落とし込んでいった。 本来、町を守るはずだった高さ8mの防波堤の無惨な姿、安渡地区に唯一残った骨組みだけのタクシー会社の鉄筋コンクリート造りの3階建てのビル、さらにその奥に津波に運ばれた船が津波の圧倒的な力を物語っている。私たちは高台に残った神社に向かった。 大槌稲荷神社の宮司さんにインタビューする池田こみち。 岩手県大槌町にて 撮影:青山貞一 石段を登っていくと、宮司さんご夫婦が出てこられたのでお話しを伺うことができた。東京から被災地の今の様子を知るために来たというと快くいろいろ話をしてくださった。 この神社には150人の方が避難してこられ1ヶ月近くを過ごした。地区には500世帯くらいあったと思うが、ほとんどの家が被災し多くの市民が被害にあった。神社に避難してきたのは女性や子どもが多く、お父さんたちは家族を避難させ、荷物を取りに戻ったり、様子を見に戻ったりして津波に巻き込まれた。 津波は何度も襲ってきた。この神社は下の地面から20mくらいは高いと思う。町の人たちは、地区で唯一の三階建てビルであるタクシー会社の屋上に逃げれば助かると信じていた。しかし、今回の津波は三階の屋上に逃げた人々を易々と飲み込んだ。津波は神社の参道の石段をじわじわ上り、上から二段目まで達し、渦を巻いて神社に迫っていた。 赤い鳥居は土台を残して流された。神社から500mほど海に近い漁協の近くにあった神社(水神様)の石塔が流れて稲荷神社の下まで来ていた。漁港の方角から屋根 だけが船のように神社まで流れ着いた。神社のコンクリートの擁壁には津波が泥や 家屋、船、自動車などが流れ着きガレキとなって積み上がっていった。ガレキが撤去されるまでの間、ものすごい悪臭いと大きな銀蠅に悩まされた。 稲荷神社での避難生活は過酷を極めた、約1ヶ月停電と断水が続き、避難者は26日間お風呂にはいることは出来なかった。水や食料は、稲荷神社の北側500mほどのところを通る国道45号まで歩いて上り、支援物資を背負って神社まで降りるという毎日だったが、物資がなかなか届かずに苦労した。幸い、神社には発電設備があったため、調理もできたが寒い時期の長期間にわたる避難生活は大変きついものだった。 大槌稲荷神社本殿 撮影:池田こみち 大槌稲荷本殿にて 動画撮影:青山貞一 今は、自衛隊やボランティアなどの協力も柄ながらガレキは仮置き場に概ね片付けられたが、土台だけ残った町を高台の神社から毎日眺めるのはとてもつらく、自分たちもどこかに出て行きたい気持ちになる。町がほぼ全滅したために買い物も釜石まで出なければならず大変だ。 ここから眺めると、川には堰をつくり、海には堤防をつくり、人間は自然を支配したかのように開発し自然を痛めてきたが、それらは結果として人をまもらず、自然の威力が町を人を破壊し尽くした姿が残った。私たちはこれまでの自然との接し方、鉄とコンクリートで押さえ込もうとしてきたことを反省しなければならいのではないかと宮司は静かに語り荒涼とした町に目をやった。 私たちは、天明3年(1783年)に浅間山噴火で灰に埋もれ、90名が村の高台にあった鎌原観音堂に逃げて助かった話をした。村を守る神社や寺社は多くの場合高台に設置されている。 鎌原村では観音堂への石段を登りきれず途中で流れてくる溶岩や火山灰に押しつぶされた人もいた。いつの時代も自然は厳しいその営みを繰り返し人々に苦悩を与えてきたが、その都度、人はその経験を踏まえ自然への敬意と畏敬の念を新たにその苦しみを乗り越えてきた。今回の地震と津波、さらには福島第一原発の事故を経験し、私たちはもういちど自然への敬意と畏敬をもちながらこの国を立て直していけるのか、一人一人が問われている。 大槌5へつづく |