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真夏の碓氷峠遺産探訪

信越本線碓氷線 Bトンネル

青山貞一 池田こみち

29  August 2010
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

<目次>
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 @歴史  
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 A橋梁 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 Bトンネル 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 C変電所
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 D技術 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 E設計 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 F文化 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 G提案 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 H補遺

◆旧信越本線(碓氷線区間)の橋梁と隧道(トンネル)の位置◆ 
  図中、左側が軽井沢側、右側が横川側


<凡例>
 ■(オレンジ色の太線)碓氷線の軌道区間
 (赤い点)碓氷線の橋梁区間、全部で18か所ある。
          図中にはないが小さな橋梁はカルバートと言われ21カ所ある
 黒の点線 碓氷線の隧道(=トンネル)区間、全部で26カ所ある。
 黒の太線 旧国道18号線の碓氷峠区間、図中のCは道路のカーブ番号

 橋梁の次は、隧道(=トンネルの意、以下トンネルとする)である。 

 旧信越本線の横川駅〜軽井沢駅の11.2kmには、当時の日本の土木技術の粋を集め橋梁が18カ所、トンネルが26カ所がつくられている。

 トンネル数の26カ所はかなりの数である。それらのトンネルの大部分は国指定の重要文化財である。

 ところで碓氷線の路線がある軽井沢駅から横川駅の区間を地形的に見ると、東部が激しく侵食されたため現在の碓氷峠は、直線距離で約10kmの間に標高差が500m以上に達する急峻な片勾配の峠となっている。

単位:m

旧信越本線碓氷線主要地点の標高
出典:グーグルアースにより青山が作成

 群馬県側の麓・横川の標高は387m、長野県側の軽井沢は標高939mである。特に、中仙道を例に取ると坂本宿から刎石山までの水平距離700mの間に標高差が300mもある。山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えていたことになる。

 ここでは、実際に私たちが実際に見学したトンネルを順序にそって紹介したい。

◆保線用トンネル?

 軽井沢から碓氷峠に向け、つづら折りの旧国道18号線(旧道、中山道)を下ってい行くと最初に出くわすトンネルが下の写真にあるものである。

 場所はC=93付近(CはCurveの略)である。旧道にはカーブが180ほどあるので、カーブ数でちょうど真ん中の位置である。


保線用トンネル?
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 ただこのトンネルの出入り口には、写真にあるように柵があり、立入禁止となっている。このトンネルはいわゆる旧信越本線の軌道としてではなく、おそらく保線用として使うためのものであろう。ちなみにトンネルの向こう側は熊ノ平(駅)である。

熊ノ平駅について

 熊ノ平駅は、軽井沢駅と横川駅の間にある碓氷峠に設けられた駅。正確には群馬県碓氷郡松井田町(現・安中市)にあった国鉄(当時)信越本線の駅である。この駅は当初、列車交換の信号所として設置されたが、明治38年に停車駅に昇格した。


熊ノ平駅
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 昭和25年に起きた山崩れでは、職員官舎を押し流し、救助、復旧に当たっていた人々を一瞬のうちにのみ込み、50名もの尊い命を奪い去った。乳飲み子をしっかり抱いた若い母親が押しつぶされた官舎のなかから発見されたときは、そこに居合わせた若い救助隊員の涙を誘ったという。

 今でもホームの脇に乳飲み子をしっかり抱いた若い母親像が静かに立っている。像の作者は分部順冶氏。


乳飲み子をしっかり抱いた若い母親像
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

<熊ノ平駅の歴史>
1893年(明治26年)4月1日 - 信越本線横川 - 軽井沢間が開通し、
     給水給炭所として設置される。
     丸山 - 矢ヶ崎間(共に信号場)は単線のため、列車交換
     設備も設けられた。
1906年(明治39年)10月1日 - 鉄道駅に昇格。
1918年(大正7年)3月7日 - 駅構内で脱線事故が発生(後述)。
1937年(昭和12年)7月 - 熊ノ平変電所が設けられる。
     同変電所は、アプト式廃止後も改修されて横川 - 軽井沢間
     の廃線まで使用された。
1950年(昭和25年)6月9日 - 駅構内で土砂崩れが発生。
1966年(昭和41年)2月1日 - 信号場に降格。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、JR東日本に継承。
1997年(平成9年)9月30日 - 長野新幹線(北陸新幹線)開通に伴い、
     信越本線横川 - 軽井沢間廃線と共に廃止。
  ※現在もトンネルやホームなどの遺構が残っている。


◆第六トンネル

 
軽井沢側から車で横川側に下りてきて、沿道沿いに第十、第九、第八、第七などのトンネルの出入り口が見え隠れするが、近づいて本格的によく見れるのは、この第六隧道である。

 第三橋梁(めがね橋)に登り、すぐ右にあるのが第六トンネルである。26カ所ある碓氷線のトンネルのなかで第六トンネルは最も距離が長い(551m)トンネルである。このトンネルは、下の地図にあるように、全体が緩やかにS字カーブしている。またトンネル中間の側壁に換気用開口部が2ヶ所ある。



 下の写真は第六トンネルである。場所は第三橋梁(めがね橋)の軽井沢側にあるが、実はここには柵がある。現在、この第六トンネル内にはガイドなしでの立ち入りが禁止されている。


第六隧道 第三橋梁(めがね橋)の軽井沢側にある
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 なお、この第六トンネルから先の碓氷線の熊ノ平駅跡までの間を在安中市が現在、「アプトの道」遊歩道の延伸を計画しているので、近い将来、第三橋梁(めがね橋)から軽井沢方面についても安全に歩くことが可能となりそうだ。

◆第五トンネル

 旧国道18号線(旧道)を軽井沢側から下って最初にトンネル内部に入れるのは、第五トンネルである。このトンネルは、第三橋梁(めがね橋)の横川側にある。軽井沢側にあるトンネルは第六トンネルである。

 下の写真は第五トンネルの「めがね橋」側で撮った五トンネルである。軽井沢側出入り口は石造りとなっている。


 
 第五トンネルの標高は以下の第三橋梁の標高とほぼ同じである。

単位:m

旧信越本線碓氷線主要地点の標高
出典:グーグルアースにより青山が作成


第五トンネル入口の前に立つ筆者(青山)
撮影:池田こみち、CoolPix S10 2010.8.15

 
第五トンネルの入口には以下の看板があり、「出口までは243m」とある。第六トンネルの延長が551mであるから、その半分以下の長さである。第五トンネルから第一トンネルまでは、現在、「アプトの道」上にあり自由に見学できる。



 下の写真は、第五トンネルを横川側に少し入ったところで撮影したものである。


第五トンネルを歩く筆者(池田)
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 下は第五トンネルにあったもので、おそらく排煙除去作業や工事作業中の人が列車が来たときに避難する場所であろう。第五トンネル内にいくつかあった。


第五トンネルにある避難場所
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 下はめがね橋から入った場合の第五トンネルの出口である。


第五トンネルの横川側出入口
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 なお、下の写真は橋梁の部でも紹介したが、第五トンネルを出て第三橋梁(めがね橋)を渡る列車である。非常に貴重な一枚である。


第五トンネルから第三橋梁を走る列車
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

◆第四トンネル

 以下は横川側からみた第四トンネルである。第四トンネルは横川側の出入り口は石造りとなっている。第四トンネルの長さは約100mである。




第四トンネルの軽井沢側
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

◆第三トンネル

 以下は横川側からみた第三トンネルである。第三トンネルは軽井沢側、横川側の出入り口はともに石造りとなっている。第三トンネルの長さは約78mである。




第三トンネルの軽井沢側
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 下の写真は第三トンネルの横川側から第四隧道、第五隧道を撮影したもの。第三隧道と第四隧道は直線状に並んでいるが、第五隧道は途中から左にカーブしている。


第三トンネル側から第四隧道、第五隧道を撮影
撮影:池田こみち、CoolPix S10 2010.8.15

 下は第二トンネルと第三トンネルの間を行く急行列車(ディーゼル起動)である。

 昭和35年から上野、長野間を急行「志賀」が走るようになった。駆動車にはディーゼル機関車(キハ57)が使われている。また同年10月からはキハ80系の特急「白鳥」(大阪ー上野ー青森)が走りはじめた。


第二トンネルと第三トンネルの間を行く
上りの急行列車ED42型機関車
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 
第一トンネルと第二トンネルは、横川駅に近い「アプトの道」上にあるが、時間の関係で今回は割愛している。

◆隧道番について

 
開通当初は列車をけん引するのは蒸気機関車で、トンネル内の勾配はきつく、しかも煙は列車より先に行くため、乗客や機関士らは絶えず、煙に悩まされていた。

 隧道番(トンネル番)は機関車の煙対策のため、列車がトンネルに入ると幕を引くのが仕事で碓氷線にあった26のトンネルのうち20のトンネルに家族とトンネルわきに官舎に住んでいた。24時間制で幕を引くタイミングも難しく、機関車の風圧で巻き込まれたりして4人が殉職している。

 下の写真は当時の「排煙幕」と「排煙隊」である。


当時の「排煙幕」と「排煙隊」
撮影:池田こみち、CoolPix S10 2010.8.15

 この煙問題、煙対策もあり、電化工事が進捗し、明治45年に碓氷線は、幹線鉄道では全国初の電化区間となった。

 下は、上記の説明である。「列車がトンネルに入った瞬間、麻でつくった排煙幕で入口をふさぐと、これで空気の流れが止まり、機関車が吐き出した煙や蒸気を入口付近に吸い寄せた」とある。


トンネル幕引きの効果
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

つづく


出典:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15が撮影した写真をもとに筆者が独自に作成した