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<目次>
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 @歴史 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 A橋梁 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 Bトンネル 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 C変電所 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 D技術 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 E設計 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 F文化 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 G提案 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 H補遺
◆第三橋梁(めがね橋)の設計 碓氷峠では仙石貢と吉川三次郎らのプランとして提案されたアプト式(アブト式)のラックレールを用いる鉄道技術が採用された。 この提案された案は、中仙道沿い(現在の旧国道18号線)に線路を敷設するため、資材や人員の運搬コストを低減できる。 一方で、提案された案だと、最大で66.7‰(パーミル・千分率。1/15 = 約3.8度、1000m行って66.7m、10km行って667m登る))という急勾配に対応しなければならない。 単位:m 旧信越本線碓氷線主要地点の標高 出典:グーグルアースにより青山が作成 明治24年(1891年)3月24日、工事は起工した。しかし、急勾配でアプト式のラックレールを用いるためには、列車の推進力を橋梁築造などで分に考慮する必要があった。 英国の鉄道技師、ボーナルは、その解決策として、大きなスパンに使われていた鋼桁ではなく、レンガ製のアーチで橋梁を築造することを提案した。 旧信越線・碓氷線の第三橋梁の設計者は、明治15年(1882年)に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘された英国人技師のパウナル氏 (Charles Assheton Whately Pownall)と日本人の当時の鉄道院技師の古川晴一氏が担当している。橋脚の中段にある石はアーチセントル(木の枠がつくられる)を支えたものである。 第三橋梁の設計図 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 古川氏は、その後、明治45年に山陰本線の有名な余部(あまるべ)鉄橋を設計している。 古川晴一氏が明治45年に設計した山陰本線の余部(あまるべ)鉄橋 出典:資料写真 第三橋梁(めがね橋)のアーチ部に、レンガを積む時は、橋梁の基礎又は最も堅牢な地盤に支柱をたて、長い横木を置きその上にアーチの型枠を据えたとある。 さらに、「碓氷橋は、高さ百尺余にして支柱を建つること甚だ困難を持って図のごとく橋柱に長き石をはさみ、この上にアーチから来る柱を支えた」。 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 しかし、工事期間中の明治24年(1891年)10月、濃尾地震が起きてレンガ造りの建造物が倒壊した事を受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた。 ◆大規模な補強工事 しかし地震対策がとりいれたものの、めがね橋などの大アーチの耐震性の効果は限定的なものであった。 完成後の明治27年(1894年)6月、明治東京地震(マグニチュード=7.0)が起きた。この巨大地震によってめがね橋の大アーチにひびが入った。同年から明治29年(1896年)にかけてレンガを巻き立てる一大補強が行なわれた。 下の写真は明治27年(1894年)に行われためがね橋の補強工事を撮影したものである。その結果、橋脚部分、アーチ部分ともに従前より太くなり、造形美的に以前の優美さは減ったものの、今なお芸術性は喪失していない。 写真では、大規模改修工事中の第三橋梁の上を蒸気機関車にけん引された客車などが走っている様子が写っている。 明治27年から29年の大規模改修工事の写真 撮影:池田こみち、CoolPix S10 2010.8.15 ◆工事に使用したレンガについて 碓氷線の橋梁やトンネル工事に使われたレンガの数は1600万個に及んでいる。第三橋梁のめがね橋だけでも、当初220万個、補強工事を入れると300万個が使われた。 横川側は橋梁の部分で解説したように深谷や川口から運び込まれた。一方、軽井沢側は主に長野から運び込まれた。そのなかには製造会社の刻印が入っているレンガ(たとえば第四トンネル)もあった。 また目地に山型目地といって見栄えのよいものもあった(たとえば第六トンネル)。これらの工事は何社かが区間を決めて行ったため、それぞれの区間でさまざまな工夫のあとが見られる。山型目地は車窓からは見えなかったが、技術、技能の高さがうかがえる。 レンガと山型目地 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 下の写真は山型目地を行った第六トンネル。第三橋梁の軽井沢側にある。 山型目地を行った第六トンネル 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 ◆短期間で竣工、そして電化対策工事 延長11.2kmの区間で、めがね橋だけでなく多くの18の橋梁、21のカルバート、26のトンネル工事が、着工からわずか1年9ヵ月後の明治25年(1892年)12月22日に竣工した。 その翌年の明治26年(1893年)4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川〜ら軽井沢間が開通したのである。信越本線の当該区間は、碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また横川と軽井沢から「横軽(よこかる)」とも呼ばれている。 かくして1912年には日本で最初の幹線鉄道の電化が行われた。 この電化により碓氷線の区間所要時間は80分から40分に半減した。また輸送力は増強された。しかし、碓氷峠は、鉄道輸送の隘路であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の板谷」、「西の瀬野八」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。 下の写真は、大正10年(1921年)〜大正11年(1922年)に第一、第二隧道(トンネル)の間で行われた新軌道(ラックレール)の敷設改修工事の写真である。現在のように、各種重機をつかっての作業ではなく、大部分は人力による敷設であることが分かる。 第一、第二隧道(トンネル)間でのラックレール敷設の新改修工事 大正10年(1921年)〜大正11年(1922年) 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 第一、第二隧道(トンネル)間での新軌道(ラックレール)の新改修工事 大正10年(1921年)〜大正11年(1922年) 撮影:池田こみち、CoolPix S10 2010.8.15 下の写真は第五隧道(トンネル)を出て第三橋梁(めがね橋)を渡る電化後のED42型機関車である。アプト式のラックレールが見える。 第五隧道(トンネル)から第三橋梁(めがね橋)上を走る列車 アプト式のラックレールが見える 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 ◆粘着運転化 明治45(1912年)の電化後、ED42電気機関車とアプト式で碓氷線は運用されたが、第二次世界大戦後、輸送の隘路を解消するため最急勾配を22.5‰ とする迂回ルートも検討された。 しかし、結果的に最大66.7‰ の急勾配を存置したまま一般車輪による粘着運転で登坂することとなった。 具体的には、アプト式軌道を廃止し牽引機関車を前後の区間から直通させ、通常レールの摩擦力のみによって走行する「粘着運転」で急勾配を克服することにした。 それまで碓氷峠を除いて非電化だった信越本線は、1962年に高崎 - 横川間、続いて1963年(昭和38年)には軽井沢 - 長野間の電化が行われた。碓氷峠の電化方式も第三軌条方式による600V給電から、通常型の架線式1,500Vに改良され、直通の条件が整えられた。 碓氷峠の粘着運転にあたり、専用の補助機関車として特殊装備を満載した重量級のEF63形が開発された。しかし、これはあくまで峠越え区間での牽引力・ブレーキ力に重点を置いた特殊機関車であった。 そこで信越本線の前後の区間まで直通できる機関車は別に開発された。これがEF62形機関車である。本形式は碓氷峠ではEF63形の補助を受けて通過することを前提とした機関車で、降坂時にはEF63形と直接連結されて協調運転が可能な構造となっている。 機関車の開発は1960年(昭和35年)から開始され、1962年5月にEF62形・EF63形各1両の試作機関車が完成した。 EF63形電気機関車を連結して碓氷峠に向かう特急「白山」 出典:Wikipedia これによって当区間の所要時間は旅客列車で40分から下り列車は17分、上り列車は24分に短縮された。 EF62形は、かつて日本国有鉄道にあった直流用電気機関車である。国鉄の最急勾配路線であった信越本線の碓氷峠越え区間に直通する列車の牽引用に開発され、急勾配での運用に対応した特殊設計がなされている。 1962年(昭和37年)から合計54両が製造されたが、既に全車が廃車された。1961年に着工し、1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が開通した。同年9月30日にアプト式は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧アプト式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。 だが電車・気動車・客車・貨物を問わず単独での運転は勾配に対応できず、EF63形を常に2両1組とした補助機関車として連結することとなった。 勾配を登る下り列車(横川→軽井沢)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢→横川)は発電ブレーキによる抑速ブレーキの機能を用いた。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に連結された。 つづく |