シルクロードの今を征く Now on the Silk Road テヘラン2 (Tehrān、イラン) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニュー(西アジア) テヘラン テヘラン1 テヘラン2 テヘラン3 テヘラン4 テヘラン5 テヘラン6 テヘラン7 テヘラン8 テヘラン9 テヘラン10 テヘラン11 テヘラン12 次はシルクロードの途中にあるイランのテヘラン2です。 ◆テヘラン 歴史 創建と発展 テヘランの起源ははっきりはしていませんが発掘調査からは紀元前6000年の住居跡が見つかっている。 9世紀には南8kmにある近郊のレイがこの地域の首邑であり、テヘランには村があったものの何ら注目を浴びていませんでした。 1220年、レイがモンゴル帝国に襲撃され徹底的に破壊されると、レイの人々はテヘランに避難し、この時から都市としてのテヘランの歴史が始まりました。当時は「レイの人々のテヘラン」などといわれていました。 14世紀、テヘランは名の知られた町になり、1404年、カスティーリャ王国のエンリケ3世がティムール帝国に派遣した大使であるルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホがサマルカンドに赴く途中にこの町に立ち寄っています。これが西洋人がこの町に足を踏み入れた最初です。 この時代までは町には城壁がありませんでした。17世紀にはサファヴィー朝の支配者たちの住居も作られました。 1553年から1554年にかけて、タフマースブ1世はバザールと城壁を作り、商業機能と防衛機能を強化されたテヘランは次第に大きな町となって行きます。しかしアッバース1世がウズベクとの戦いに行くためにテヘランを通ったとき、王は病気となり、その後、王に嫌われた町となってしまいました。 18世紀、ザンド朝のカリーム・ハーンはテヘランに宮殿とハーレムの建設を命じ、政府機関も移転する予定でしたが、都は最終的にシーラーズになってしまいます。 サファヴィー朝の建国者、イスマーイール1世。サファヴィー朝の下で シーア派イスラームの十二イマーム派がペルシアの国教となり、現在 にまで至るイランのシーア派化の基礎が築き上げられた。 Source:Wikimedia Commons ガージャール朝時代 テヘランがイランの首都になったのは1795年、ガージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーがこの地で戴冠したときです。 1857年のテヘランの地図。この時期はいまだ旧城壁のままである August Křziž - Encyclopædia Iranica, パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons 彼はゴレスターン宮殿の造営を開始したものの、この時期にはまだ城壁はタフマースブ1世時代に建設されたものと全く同じ規模でした。この小規模な城壁では増大するテヘランの人口を収容しきることはできず、北部城外には富裕層の、南部城外には手工業者たちの居住地が建設されるようになっていました。 ガージャール朝4代国王であるナーセロッディーン・シャーはこの状況を改善するため1869年より城壁の大拡張を行い、8角形で全長16km、12の門を持つ新たな城壁が1874年には完成しました。旧城壁は撤去され、1889年にはその跡地に鉄道馬車の路線が敷設されました。 1892年にはテヘランから南のレイまで鉄道が開通し、徐々に近代化が進んでゆきました。しかしガージャール朝の衰退とともにテヘランにも不穏な空気が漂うようになり、1905年には物価高騰からバザールの商人を中心とした抗議行動が起き、やがてテヘランから全国へと波及し1906年にイラン立憲革命が起きました。 サアダーバード宮殿内の緑の宮殿。ガージャール朝時代に夏の離宮として建設された Apcbg - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons テヘランでは議会が開催されましたが、内紛によって弱体化するのを見た国王モハンマド・アリー・シャーは軍事力で議会を解散させます。しかし立憲派のこもるタブリーズを陥落させることができず、逆に立憲派の反攻を招いてモハンマド・アリー・シャーは退位しロシア帝国へと亡命して、テヘランを奪回した立憲派はアフマド・シャーを即位させました。しかしイギリスとロシアの介入によって立憲革命は失敗に終わり、ガージャール朝は支配力を失いました。 テヘラン3へつづく |